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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <10> 女学院大時代

米留学 思いがけぬ誘い

  ≪1950年、広島女学院大に進む≫

 県外への進学は考えなかったですね。原爆で焼き尽くされた広島の再生に懸命に取り組む大人たちの姿を見つめ、私もその一部を担いたい、と強く意識していましたから。

 ソ連の核実験、朝鮮戦争と米国による核使用の懸念―と緊迫した時代。キリスト教女子青年会(YWCA)を通して、私の心の師となる広島大の森滝市郎先生と出会ったのはその頃です。原水爆禁止運動、被爆者運動を率いた方ですが、広島大のYMCAの世話もされていたんです。人類を脅かす核時代を告発し、絶対平和の思想を学生に説いてくださった。反核運動を熱心にやりました。男子学生と一緒の活動も楽しくて。戦争中は考えられなかったことです。

 ≪英文学専攻の学生として、英語を生かした活動にも没頭。人生が一変するきっかけを得る≫

 サンフランシスコ講和条約が発効して日本が正式に独立した52年の秋、広島では初の大きな国際会議だった「第1回世界連邦アジア会議」で通訳を務めました。世界連邦運動は欧米発祥で、谷本清牧師が取り組んだ経緯があります。

 会議出席者の中に、米東部バージニア州のリンチバーグ大から来ていた宗教学者のジョセフ・ハンター博士がいました。反核を巡る私の考えを英語で述べたのですが、その後「留学して米国でも伝えてはどうか」と思わぬ提案をされたのです。

 戦前に米コロンビア大で学んだ広瀬ハマコ学長に相談すると、「ならば社会福祉を学び、広島に持ち帰って。新憲法の下、女性が活躍できる時代が来たのだから」と背中を押されました。日本では、福祉を体系的な学問領域とする発想がまだ希薄でしたし、何とも新鮮でした。

 洗礼を受けた時と同様に、両親は私の選択を尊重してくれました。明治の人ですが、私が子どもの頃から「節子は弁護士になればいい」「いや、教育者だね」と話すなど、「良妻賢母」と違う人生を望んでくれる一面もあったんです。

 さらに翌年には、意外にも北海道で、将来の結婚相手と出会います。

(2018年8月16日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <11> 奉仕活動

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