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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <14> 市教委勤務

カナダ初 原爆展に奔走

 1970年、ソーシャルワーカーとしてトロント市教委に勤め始めました。精神科医、心理学者との3者でチームをつくり、担当する小中高を毎週巡回。いじめや学力低下など、個別のケースについて学校側と対応を協議するのです。

 家庭状況の把握に加え、カナダは移民の国ですから、文化的な事情への理解が不可欠です。学校と家庭の両方に関わり、守秘義務も伴う仕事。神経をすり減らしましたね。でも、一人苦しむ母親の信頼を得て「私も話を聞いてほしかった。ありがとう」と言われるたび、やりがいを感じたものです。

  ≪被爆体験を語る機会も再び増えていった≫

 子育てに必死でしたから、この頃までは頼まれたら教会で語る程度でした。地元の高校で歴史を教える夫ジムと共働きでしたし。ところが市教委に勤めるうち、先生から「学校で体験を証言してほしい」と声がかかるようになったのです。

 実はカナダは核の「当事者」なのに、国民の多くは何も知りません。科学者は米国の原爆開発に加わり、先住民を酷使して採掘したウランは原爆の材料になった。しかも74年5月には、カナダが提供した原子炉を悪用してインドは核実験をしたのです。被爆30年の節目も近づく中、被爆者としての責務を感じ、いてもたってもいられなくなっていました。

 まずは世論の喚起を、と大学の教員団体に働き掛けてカナダ全土から募金を集め、「核兵器の完全廃絶」を訴える新聞の意見広告を3回掲載しました。300人以上の連名です。予想外の反響でした。

 さらに、誰にでも分かりやすいようにと思い立ったのが、カナダでは初となる原爆展です。以前から親しかった社会学者の鶴見和子さんに打ち明けると、「ぜひ成功を。私からもお願い」と励まされてね。74年夏に帰省し、広島市に協力を要請すると、快諾してもらえました。

 カナダで仲間を募り、弁護士や平和活動家、作家など素晴らしい面々が集いました。今に続く反核運動の同志との縁は、ここから始まったのです。わが家は準備作業や作戦会議の場となり、ジムと私はてんてこ舞い。毎晩、それはにぎやかでした。

(2018年8月23日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <15> 裁判支援

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