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パルチコフ一家 被爆前の日常 白系ロシア人、1922~45年に広島で撮影 米在住の遺族、300枚所蔵

 広島女学校(現広島女学院中高、広島市中区)の音楽教師だった白系ロシア人被爆者、セルゲイ・パルチコフさん(1893~1969年)の22~45年撮影の写真約300枚を米国在住の遺族が所蔵していることが分かった。カメラが趣味だったパルチコフさん自身が街角で撮影した家族の写真も多数ある。(新山京子)

 店の前でハトに餌を与える子どもたち。泉邸(現縮景園、中区)で記念撮影に収まる家族。幼い弟を乗せてベビーカーを押す長女カレリアさん…。市民生活に溶け込んでいた一家の日常が伝わる。カレリアさん(2014年に93歳で死去)の長男アンソニー・ドレイゴさん(70)=カリフォルニア州=が保管している。

 広島女学院歴史資料館(東区)の西原眞理子さんは「本人撮影の写真は所蔵していない。当時を知る貴重な資料」と話す。市公文書館(中区)や原爆資料館(同)もパルチコフさん関係の写真は持っていないという。

 パルチコフさんが被写体の写真も多数あり、体育祭で女学生のオーケストラを指揮する姿や、愛用のバイオリンを手にほほ笑む様子を捉える。ドレイゴさんは、祖父と母の生涯を書き記して出版する準備を進める中で、母の遺品のアルバムから写真を確認した。

 広島女学院によると、パルチコフさんはロシア革命を逃れて1922年に妻アレキサンドラさん、カレリアさんと日本へ亡命。広島で長男ニコライさんと次男デヴィッドさんが生まれた。市内の映画館でバイオリン奏者を務めた後、26~43年は広島女学校の音楽教師に。現在の幟町小(中区)に近い旧上流川町で暮らした。

 第2次世界大戦中の43年、スパイ容疑で連行された。その後牛田旭(東区)に居を移し、爆心地から約2・5キロの自宅で被爆。戦後に家族で渡米した。

 カレリアさんは86年、パルチコフさんが愛用していた「被爆バイオリン」を広島女学院へ寄贈。歴史資料館に展示されている。昨年8月6日には、19歳で被爆死した河本明子さんの自宅で被爆したピアノとともにNGO(非政府組織)ピースボートの船上で演奏された。

 ドレイゴさんによると、生前の祖父から広島での暮らしについてよく聞かされたが、被爆体験に触れることはほとんどなかったという。「広島での生活は祖父と母たちの人生に大きな影響を与えた。写真がその証しだと思う」と話している。

(2020年5月11日朝刊掲載)

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