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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] NHKアナウンサー 出山知樹さん(53) 吉川清・生美夫妻

「原爆一号」の怒り伝える

 NHKに入局して31年目。日々ニュースや話題を視聴者に届ける。広島放送局での勤務は「思いがけず」4度目。広島はすっかりなじみの土地になった。

 初めて赴任した1996年、原爆ドームが世界遺産に登録された。埼玉の高校生がドームの模型作りをしているとの情報を得て取材を始めたが、生徒たちは知識が乏しく悪戦苦闘。ドームについてよく知る被爆者を探していて出会ったのが吉川生美さん(1921~2013年)だ。「きゃしゃだけど話すとエネルギッシュ」。生徒たちと一緒に交流するようになった。

 生美さんは「原爆一号」と呼ばれた吉川清さん(1911~86年)の妻。背中のケロイドをさらして原爆のむごさと被爆者の怒りを国内外に訴えた清さんの亡き後、夫の背中の写真を見せながら若い世代に被爆体験を証言していた。

 「生美さんを通して夫妻の歩みを学んだ」。夫妻はあの日、爆心地から約1・6キロの自宅で被爆。清さんは大やけどを負い、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)に入院した。背中一面のケロイドを見た米国の視察団が「原爆一号」と叫んだことから清さんの代名詞となる。

 51年に退院後、原爆ドームそばで土産物店「原爆一号の店」を開き、絵はがきなどを売った。請われれば傷痕も見せた。「原爆を売り物にしている」と非難もされたが、清さんは「原爆の恐ろしさを知ってもらうため」と反論した。何の援護もなかった時代。後障害に苦しみ、生活困窮にある被爆者を訪ね歩いて、被爆者組織「原爆傷害者更生会」を結成。被爆者運動の先駆けだった。

 「清さんを語る生美さんの言葉は力強かった」。心打たれ、身寄りのなかった生美さんの自宅を何度も訪ねるうち「息子」のような存在に。日常的に接する中で、被爆者の実情や援護の在り方などについても見識を深めた。

 ある時、生美さんが清さんとのなれそめを聞かせてくれた。「(清さんの)背中にひと目ぼれしたんよ」と。お見合いの別れ際、自分を守ってくれそうな大きな背中に引かれたのだという。「人間としての2人の姿を感じた」

 生美さんは「自分たちのことを伝えてほしい」とよく口にしていた。「映画を作れば、生美さんの言葉や吉川夫妻の人生を記録に残すことができる」。映画監督になるのが夢だったこともあり、休日を利用して「運命の背中」(2009年)を自主制作した。

 ラストシーンは生美さんが、ドーム前で子どもたちに語りかける姿を撮った。「誰も同じ目に遭わせてはいけない」という夫妻の願いを込めた。

 広島に赴任するたび、被爆者たちの老いを痛感する。映画が完成した時、生美さんも証言活動が難しくなっていた。13年、生美さんは92歳で亡くなった。

 「自分が伝えていかないと」。吉川夫妻が原爆ドームそばに開いた屋台のような土産物店を再現し、歩みを伝えるイベントなどを企画するほか、原爆を題材にした映画制作も続ける。職場の後輩にも、被爆地の声を共に発信しようと呼びかけている。

 強い責任感で夫の遺志を継ぎ、「語りながら命を落としてもいい」と証言を続けた生美さん。託された思いをこれからも伝えていく。

でやま・ともき
 神戸市生まれ。金沢大卒業後、1992年、NHK入局。広島放送局のほか和歌山、東京、大阪にアナウンサーとして勤務。自主制作の映画作品に、原爆ドーム保存運動につながる日記を残した楮山(かじやま)ヒロ子さんを描いた「ヒロ子の日記」(2022年)など。広島市安佐南区在住。

吉川清と被爆者組織
 吉川清は1951年、病気や貧困にあえぐ被爆者の生活状況を改善しようと、一人一人を訪ね歩いて聞き取りし、被爆者組織「原爆傷害者更生会」を発足。52年には詩人の峠三吉らと「原爆被害者の会」を結成し、医療と生活援助を訴えた。最初期からの活動は56年の日本被団協結成へつながった。

(2023年1月16日朝刊掲載)

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