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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 元広島市長 平岡敬さん(95) 金井利博

「核権力」 人間の側から問う

 中国新聞記者としていち早く韓国に渡り、貧困や差別に苦しむ在韓被爆者に光を当てた。広島市長として核兵器の非人道性を訴え続けてきた。一貫するのは、「人間の側から核兵器の問題を見る」という視点。

 それを得るのに大きな影響を受けたのが先輩記者金井利博さん(1914~74年)だ。「広島に生きる記者としての目の据え方と執拗(しつよう)な食い下がりを間近で学んだ」

 論説主幹などを務めた金井さんは「原爆は威力として知られたか。人間的悲惨として知られたか」と問い掛け、原爆被害が未解明であることを説きながら「原爆白書」運動を提唱。自らも資料収集の先頭に立った。活動から得た思想を体系化して反核の論陣を張り、多くの後進も育てた。「私はいわゆる『金井学校』の生徒です」

 出会いは入社間もなく。書きたくて入社したのに配属先は紙面編集を担う整理部。当時学芸部にいた金井さんにドイツ雑誌を翻訳した原稿などを売り込み、ペンネームで載せてもらうようになった。61年、金井さんに「引っ張られるように」同部へ移り、原爆取材が始まる。「表面的な現象だけ追うのではなく平和運動を思想的観点から深く掘るように」と命じられた。

 被爆者団体や原水禁運動を追っていると当然、個々の被爆者と関わる。生々しい傷痕に触れる。「取材すればするほど被爆者の苦悩を目にすることになり、つらかったが、だからこそ自分の問題になった」

 65年夏、連載や年表からなる「ヒロシマ二十年」報道を担当。同僚と切磋琢磨(せっさたくま)しながら、苦しみを強いられた人間の側から原爆を伝える報道の礎を築いた。

 ある日、広島で被爆し治療を望む韓国の男性から新聞社に手紙が届く。日本の植民地下で朝鮮の人々が被爆した事実は知っていたのに「意識の中になかったことを恥ずかしく思った」。

 日韓の国交が回復した65年、自費で渡韓。置き去りにされた被爆者の窮状を伝え救援の必要性を説いた。治療を求め密入国した在韓被爆者孫振斗(ソン・ジンドウ)さんの裁判も支えた。同時に、歴史に対する責任感の欠落に警鐘を鳴らし続けてきた。そんなまなざしも金井さんに通ずる。

 「中国新聞八十年史」(72年刊)の編さんに携わっていた時だ。新聞の戦争責任をどう記述するかを巡り、関係者の意見は割れた。「私は戦中の紙面に目を通し大本営発表のままに読者を扇動した新聞の責任を書いておくべきだと主張したが、自らの恥をことさら残すことはないというのが有力な意見だった」。編さん委員長だった金井さんは断じた。「過ちを犯したことは恥ずかしいが、それを隠そうとするのはもっと恥ずかしいことだ」。最終的に「過ち」についての記述は残った。「金井さんからは多くを学んだがこの一件は特に印象深い」

 広島市長に就任してからも「人間の側」からヒロシマを発信してきた。91年の平和宣言で、日本によるアジアの植民地支配と戦争を巡り「申し訳なく思う」と言及。95年にはオランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で陳述し、核兵器の違法性を訴えた。核兵器の使用は「一般的に国際法違反」とする翌年の勧告的意見を引き出した。

 「核被害への無知と無関心が核抑止論の横行を許す。核兵器は政治の問題であり核のボタンを握るのは権力者。それを忘れてはならない」。金井さんが著書でも説いた「核権力」に厳しい目を注ぎ続ける。

ひらおか・たかし
 大阪市生まれ。1937年朝鮮半島に家族で移り、少年期をソウルで過ごす。45年9月広島に引き揚げ。早稲田大卒業後、中国新聞社に入社。編集局長、中国放送社長などを経て91年から広島市長を2期8年。旧ソ連の核実験被害者への医療支援も続ける。広島市西区在住。

「原爆白書」運動
 金井氏が1964年、広島市であった原水爆被災3県連絡会議で提唱。国の責任で原爆被害の全体像を解明し、白書作成と国連提出を通じて世界へ示すよう訴えた。原爆文献や映像資料などを網羅する「原爆被災資料総目録」の発行や「爆心地復元運動」など、大学や行政、メディア、市民を巻き込み広がったが取り組みは未完。

(2023年1月16日朝刊掲載)

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