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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 被爆者・通訳 小倉桂子さん(85) ロベルト・ユンクと小倉馨

 原爆被害の実態をつまびらかにし、生涯をかけて反戦反核を訴えた先人たちがいる。「ヒロシマ原人」とも呼ばれた人々の志は、平和運動のみならずさまざまに次代に受け継がれ今につながる。一方、被爆から78年が迫り、忘れられかけている大切な歩みもある。現在の広島で被爆の記憶と向き合う人の「道しるべ」となった人物について聞く。その軌跡を共にたどり、胸に刻む。(森田裕美、新山京子、湯浅梨奈)

2人に導かれ世界へ発信

 通訳として海外から広島を訪れる人々を案内し、英語を話す被爆者として国内外で体験を語る。多い時は年2千人以上にヒロシマを伝えてきた。「後を継ぐなんてとんでもない、夫の活動と自分は関係ないと思ってきた。でも今は脈々としたつながりを感じる」

 夫とは小倉馨(1920~79年)のこと。米国に生まれ、秀でた語学力と国際感覚で被爆の実情を海外に発信した人だ。市職員として原爆資料館長などを歴任し、広島を訪れる海外要人たちを英語で案内。米ニューヨークの国連本部での原爆写真展開催にも努め、「ヒロシマの世界化」に尽くした先駆者ともいえる。

 「馨が旧軍少尉としてインドネシアで敗戦を迎えた時、私は国民学校2年生。年齢もバックグラウンドも違う」。そんな2人を結び付けたのが、ドイツ出身のユダヤ人ジャーナリスト、ロベルト・ユンク(13~94年)である。原爆開発の歴史に迫った著作などで知られ、当時既に有名人だった。

 広島を取材していたユンクとの出会いは57年。「英語を話す若い女性被爆者」として知人から紹介された。「彼の反核思想の根底にはホロコーストで家族を奪われた体験があり、愛する人を待ったなしで奪う核兵器を心から憎んでいた」

 3年後、広島を再訪したユンクとばったり再会。その時、隣にいたのが馨だった。馨はかねてユンクの協力者として取材を支えていた。ユンクの縁で自然と馨に連絡を取るようになり、2年後に結婚。2児を授かり、主婦として育児に義父母の介護にと、忙しい毎日を過ごした。

 そんなある日、8月6日に広島市長が読み上げる平和宣言の草稿を執筆中だった馨が突然倒れ、帰らぬ人に。「子どもは当時まだ15歳と12歳。途方に暮れた」。悲しみに沈んでいた時、ユンクから電話を受ける。聞けば「広島に行くから通訳してほしい」という。

 「英語も忘れているしとても無理」と断ってもユンクは認めてくれない。「君は愛する人を突然失った悲しみが分かる、被爆者の苦しみも知っている。君こそがヒロシマを世界に伝えるべきだ」と説得された。

 猛勉強した。気が付けば馨と同様、海外からやって来る記者や作家たちの通訳や取材のコーディネートに追われていた。馨の亡き後も彼を慕う外国人が次から次へとやって来る。馨と親交のあった人々と会い、夫が生きた時間を追体験した。「いつのまにかバトンが渡されていた」

 83年には当時の西ドイツ・ニュルンベルクで開かれた「反核国際模擬法廷」へ高齢の被爆者の代理で出席。壇上で、8歳の時に被爆した体験を初めて語った。欧州への戦術核配備に抗議する市民運動が盛り上がりを見せた時期。その熱気を吸い込んで帰国し活動に精を出す。翌84年ボランティア組織「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を設立。翻訳業務などを担う会社もおこした。以来ユンクの言葉を胸に、ずっと走り続けてきた。

 近年になって、馨が57年から2年半近くにわたってユンクへ宛てた大量の書簡の写しが見つかった。広島の動向を伝える新聞記事や被爆者が体験をつづった原稿、インタビューなども英訳されていた。これがなければ、ユンクの著書「灰墟(はいきょ)の光」は生まれなかったろう。

 「馨がヒロシマにいかに深く関わり、何を伝えようとしてきたか再確認できた」。夫の背中を追うように歩んで40年余り。どれもこれも、馨を通してユンクの志に導かれてきたような気がしている。

おぐら・けいこ
 広島市生まれ。8歳のとき牛田町(現東区)の自宅そばで被爆。広島女学院大卒。1962年小倉馨と結婚。84年、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を設立し現在も代表。2011年から広島平和文化センターの被爆体験証言者。広島市中区在住。

「灰墟の光」
 ユンクが広島を取材したルポ。原爆被害者の声をすくい上げ、核時代における人間の存在危機を訴えた。10カ国語以上に翻訳され日本語訳は1961年に刊行。小倉馨は広島での調査や通訳を助け、ユンクの帰国後も協力。原著で「理想的な共同作業者」として謝辞が贈られた。

(2023年1月16日朝刊掲載)

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