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辻村寿三郎さんを悼む 独自の創作 戦時下に原点

初期作 被爆死の親友モデル

 鬼才の人だった。唯一無二の「ジュサブロー人形」を生み出した。創作人形の新たな世界を切り開いたばかりでなく、テレビや演劇の歴史にも足跡を刻んだ。その原点には、故郷広島での戦争体験があった。

 2011年、本紙連載「生きて」の取材で、当時東京の人形町にあった「ジュサブロー館」でお会いした。幼少時にNHKの人形劇「新八犬伝」を見て以来の大ファン。憧れの辻村さんが柔和な口調で語り始めた人生は、新八犬伝さながらの数奇な物語だった。

 旧満州(中国東北部)で生まれ、広島県出身の養父母の元で育った。養母は料亭を営み、そこで働いていた芸者が実母だった。幼少期に親しんだ京劇や大道芸が、後の創作世界への入り口となる。

 養父の死、太平洋戦争の勃発を経て、1944年に広島に引き揚げた。現広島市西区の大芝国民学校に通い、みっちゃんという少女と親友になる。養母の故郷の三次に転居したのは、原爆投下の4カ月前だった。

 人形をひそかに作り始めたのは戦時中の三次で。「婦人会に人形を習いに行ったら、『ぼうや、戦争中だから男の子には教えちゃいけないのよ』と。鉄砲持たなきゃならない男の子が人形なんて国賊だからね」。当時を語る口調には怒りがこもっていた。世間に迎合せず独自の創作を貫く姿勢は、このときに芽生えたのだろう。

 戦後は、旧三次劇場に巡業にやってくる俳優座、前進座などの芝居に夢中になり、新制中学で演劇部を立ち上げた。中学卒業後は、洋服の仕立てや映画の看板書きに従事。養母の死を機に単身上京し、俳優の付き人、人形劇団の研究生、歌舞伎の小道具制作などの仕事を転々とした。

 長い下積みを経て61年から、人形作家の登竜門「現代人形美術展」に入選を重ねた。その一つ、「広島より心をこめて」の愛らしい少女像のモデルは、被爆死したみっちゃんだった。

 飛躍のきっかけは、60年代半ばのアングラ演劇ブームだった。故寺山修司の劇団「天井桟敷」に人形師として参加。妖しい魅力を放つ人形を次々と発表し、NHKのディレクターの目に留まった。

 73年に放送開始の「新八犬伝」では、全464話の人形美術を担当。「人形に歌舞伎の様式を取り入れた」という辻村さんの狙いは当たり、番組は大人も巻き込み大ブームに。それまで幼児向けだったテレビ人形劇の新機軸を開いた。当時、少年だったミュージシャンの大槻ケンヂやデーモン閣下は「大きな影響を受けた」と話す。

 その後、舞台衣装の世界でも活躍。78年、故蜷川幸雄演出の「王女メディア」で、主演の故平幹二朗(広島市中区出身)が着用した巨大な爬虫(はちゅう)類のような衣装は伝説だ。以来、終生にわたって平は「私の代表作」と言い続け、辻村さんと親交を紡いだ。同じ広島を古里とする2人は今、天上で芝居談議に興じているだろうか。(西村文)

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 辻村寿三郎さんは5日死去、89歳。

(2023年2月14日朝刊掲載)

辻村寿三郎さん死去 89歳 人形作家「新八犬伝」

「無欲 ただ人形を作る」 辻村寿三郎さん死去 地元三次 悼む声

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