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大江健三郎さんを悼む 被爆地の人々に導かれ

 大江健三郎さんは、原爆を体験した人間の側に立って考え表現してきた行動するヒロシマの作家でもあった。若き日の1965年に刊行し、今も読み継がれている「ヒロシマ・ノート」で、被爆地で出会った人たちを「いかなる状況においても屈服しない」と捉え、自らの生き方にも投影した。核兵器という究極的な暴力が支配する世界に我(われ)らはどう立ち向かうのか。人間の再生を豊穣(ほうじょう)な言葉で紡ぎ、世界的な作家へと歩んだ。

 「自宅で考えたことをお話しできればと存じます」。2010年秋、中国新聞記者だった筆者は大江さんからの返事をファクスで受けた。東京・世田谷区で、膝を突き合わせてインタビューする機会を得た。

 その年、中国新聞論説主幹だった金井利博氏の資料が遺族から広島大へ寄贈され、大江さんの書簡が含まれているのを知った。「ヒロシマ・ノート」の印税を出版社から前借りして、「30万円を重藤先生、20万円を『原爆被災白書』運動準備資金の一部に、金井さんに送ります」(1965年4月16日投函(とうかん))と書いていた。

 大江さんは、広島原爆病院長だった重藤文夫氏や、金井氏らとの出会いを語り、こう続けた。

 「原爆で苦しみながら屈することなく、自らを恢復(かいふく)させ、仕事を成し遂げる。重藤先生をはじめ『無名戦士』とでも呼ぶべき人たちに何人も出会った。若い父親としての自分自身が立ち直るきっかけを得た。息子の光とどう生きていくのかを重ねた。広島を考えることが生きていく、また、僕の文学の根拠地ともなった。人間のモデルに立ち返って考えて書き、一つのモデルを示すということです」

 大江文学の神髄を、繕うことなく語ってくれた。代表作の一つ「個人的な体験」にも描かれた、大人になって作曲も手がけるようになる息子の光さんが、光彩が注ぐ食卓でくつろいでいた。

 45年8月6日を「核時代ゼロ年」と呼び、金井氏が唱えた「核権力」が世界を覆う現状に異議を申し立て、日本のダブルスタンダードを厳しく指摘した。

 「米国の核を認めながら他国の核を脅威とする態度ではアジアの安定は確実なものにならない。広島発の新たな国民運動が要ります。原爆で死んでいった者たちを裏切らない、人間の普遍の問題として考え、核廃絶に向かって生きること」を促した。

 一方で、「作家としては憂鬱(ゆううつ)な気持ちで晩年を過ごしています」とも語った。「僕の書いたり、言ったりしたことが核兵器の廃絶にリアルな役割を果たさなかった者として死んでいくんだ、と思っています」

 しかし同時に、人間は自らを高めようとする本能を持つというパスカルの言葉や、パレスチナ問題を巡る友人の批評家エドワード・サイードの態度を引いて、「人間のすることだからと核廃絶に希望を持ちます。実現を信じている」と、未来を見据えるように話した。

 大江さんはその後もファクスで返事をくれた。ただ2016年になると、「いただいた手紙の記憶がまったくないのです」と老齢の不安も書いていた。「大江健三郎全小説」の刊行が始まった18年、大江さん家族が信頼する元NHKディレクターから体調を聞き、手紙を送るのは控えた。

 作家は逝ったが、その作品は残る。累計100万部を超えた「ヒロシマ・ノート」の結びを最後に紹介する。

 「決して絶望せず、しかも決して過度の希望をもたず/日々の仕事をつづけている人々、僕がもっとも正統的な原爆後の日本人とみなす人々に連帯したいと考えるのである」。受け継ぐのは被爆地の市民だ。(元特別編集委員・西本雅実)

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 大江健三郎さんは3日死去、88歳。

(2023年3月14日朝刊掲載)

天風録 『大江健三郎さん』

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