[ヒロシマドキュメント 1945年] 中心部壊滅 負傷者を似島へ
24年8月6日
米軍は1945年8月6日午前8時15分に、広島に原爆を投下した。島病院の上空600メートルでさく裂し、官公庁や中国軍管区司令部もあった広島市中心部は壊滅した。
市公文書館所蔵の「戦災記録 第一号」に6日から1日ごとの広島県の対応が記されている。「八月六日」は「強力爆弾ノ為全市内家屋倒壊 火傷患者続出並ニ火災発生」。県庁が倒壊し、有事の「非常疎開先」だった市役所や福屋なども「焼失」したと大混乱ぶりを伝える。
救援活動は、爆心地から約4・6キロ南東で被害が軽かった宇品町(現南区)の陸軍船舶司令部が指揮した。作戦命令書をまとめた「作命綴(つづり)」(防衛省防衛研究所所蔵)によれば、6日午前8時50分に第一号が発令され、「救難艇ノ一部ヲ以テ逐次患者ヲ似島ニ護送」などと命じた。多くの兵士が市中心部に出動し、負傷者を似島検疫所に運ぶ救援に乗り出した。
原爆被害の全容は今も分かっていない。市の原爆被爆者動態調査(2019年3月末時点)で、名前が確認できた「8月6日死亡」の犠牲者数は5万4327人。今も名前を確認できていない人が多くいるとみられる。
(2024年8月6日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 1945年] きのこ雲 思わず撮影
[ヒロシマドキュメント 1945年] 79年前のきょう 御幸橋のたもとで
市公文書館所蔵の「戦災記録 第一号」に6日から1日ごとの広島県の対応が記されている。「八月六日」は「強力爆弾ノ為全市内家屋倒壊 火傷患者続出並ニ火災発生」。県庁が倒壊し、有事の「非常疎開先」だった市役所や福屋なども「焼失」したと大混乱ぶりを伝える。
救援活動は、爆心地から約4・6キロ南東で被害が軽かった宇品町(現南区)の陸軍船舶司令部が指揮した。作戦命令書をまとめた「作命綴(つづり)」(防衛省防衛研究所所蔵)によれば、6日午前8時50分に第一号が発令され、「救難艇ノ一部ヲ以テ逐次患者ヲ似島ニ護送」などと命じた。多くの兵士が市中心部に出動し、負傷者を似島検疫所に運ぶ救援に乗り出した。
原爆被害の全容は今も分かっていない。市の原爆被爆者動態調査(2019年3月末時点)で、名前が確認できた「8月6日死亡」の犠牲者数は5万4327人。今も名前を確認できていない人が多くいるとみられる。
(2024年8月6日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 1945年] きのこ雲 思わず撮影
[ヒロシマドキュメント 1945年] 79年前のきょう 御幸橋のたもとで