[ヒロシマドキュメント 1945年] きのこ雲 思わず撮影
24年8月6日
1945年8月6日の朝。当時17歳の山田精三さん(96)は広島県府中町の自宅を出るとき、「軽い気持ち」でカメラを携えた。
旧制中学の夜間部に通いながら、中国新聞社でアルバイトをしていた。6日は休みを取り、飯ごう炊さんをしようと友人と町内の渓谷の水分(みくまり)峡に向かった。軍施設が多い広島市の街中は「カメラを持って歩いていると憲兵に怒られた」が、山中はその心配はなかった。
水分峡の入り口にさしかかった頃。山田さんは空に虹のような波紋が出たように記憶している。「『おかしいのう』と友人と話していたら、ピカッと光って、ドーンという音が聞こえた。まさに『ピカドン』ですよ」
とっさに土の上に伏せた後、起き上がってシャッターを切った。「松の木々の下から太陽が上がってくる感じでね。雲の色は赤と黒の絵の具を混ぜたような…」。何が何だか、分からなかった。
後に分かる爆心地からは北東に約6・5キロ離れていた。さく裂から約2分後の撮影とみられ、地上から最も早く撮ったきのこ雲の写真となった。
山中にとどまっていると、友人の母親が「大変だ」と走ってきた。水分峡を下りると、皮ふが焼けただれた人が押し寄せていた。「大変なことが起こった」と初めて感じた。(新山京子)
(2024年8月6日朝刊掲)
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[ヒロシマドキュメント 1945年] 中心部壊滅 負傷者を似島へ
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水分峡の入り口にさしかかった頃。山田さんは空に虹のような波紋が出たように記憶している。「『おかしいのう』と友人と話していたら、ピカッと光って、ドーンという音が聞こえた。まさに『ピカドン』ですよ」
とっさに土の上に伏せた後、起き上がってシャッターを切った。「松の木々の下から太陽が上がってくる感じでね。雲の色は赤と黒の絵の具を混ぜたような…」。何が何だか、分からなかった。
後に分かる爆心地からは北東に約6・5キロ離れていた。さく裂から約2分後の撮影とみられ、地上から最も早く撮ったきのこ雲の写真となった。
山中にとどまっていると、友人の母親が「大変だ」と走ってきた。水分峡を下りると、皮ふが焼けただれた人が押し寄せていた。「大変なことが起こった」と初めて感じた。(新山京子)
(2024年8月6日朝刊掲)
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