[ヒロシマドキュメント 1945年] 79年前のきょう 御幸橋のたもとで
24年8月6日
1945年8月6日、広島市上空で米軍が1発の原爆をさく裂させた。巨大な「きのこ雲」の下にどんな光景が広がっていたのか。多くの負傷者が逃れてきた御幸橋西詰め(現中区)の2枚の写真は、被爆当日の市内の市民の惨状を克明に記録している。中国新聞社のカメラマン、松重美人(よしと)さん(2005年に92歳で死去)が葛藤の末に撮影した。その場にいた人の「声」とともに79年前のきょうを見つめる。(編集委員・水川恭輔)
「目の前で雷が落ちたのかと思うほどの光でした」。松重さんは、広島平和文化センター制作の証言映像(86年収録)で「あの日」を振り返っている。被爆当時、中国新聞社の写真部員で32歳。出勤のため家を出た後、トイレに行きたくなって自宅に戻ると、突然閃光(せんこう)が走り、爆風で壁にたたきつけられた。
後に分かる爆心地から約2・8キロ南東。近くの御幸橋を渡って新聞社がある市中心部に向かおうとした。だが、火炎の勢いを見て引き返した。
御幸橋西詰めに戻ると髪や皮膚が焼けただれた負傷者が群がり、うめき泣いていた。爆心地から約2・2キロ。「若いお母さんが小さい子どもを抱いて『目を開けてちょうだい』と言いながら走り回っていました。本当に地獄でした」(証言映像)
松重さん自身は傷が軽かっただけに、苦しみ、今にも息絶えようとする人たちにカメラを向けるのは申し訳ない気持ちだった。ためらった末、カメラマンとしての務めを果たした。
「『ひどいことをしやがったな』といゝながら一枚写真を撮った。憤激と悲しみのうちに二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーがくもっていた」(52年刊の「原爆第1号ヒロシマの写真記録」収録の手記)。70年の別の手記では、苦しむ被災者に「ゆるしてくださいよ」と謝る気持ちでシャッターを切ったと書いている。
御幸橋の2枚は午前9時半ごろから11時ごろの撮影。午後、火炎の衰えを感じて中心部に入った。爆心地から200メートルほどの紙屋町(現中区)で、焼けた電車内に裸の遺体が折り重なっているのを見た。中心部を歩いている間は、1枚も撮れなかったという。亡くなった人の姿が「あまりに気の毒でかわいそう」だったからだと証言している。
逃れてきた西岡さん 顔にやけど 「家に帰りたい」
「ぼうぜんとして『家に帰りたい』ばっかりでした。街の中心の方は火の海。川にはたくさんの死体が流れていました」
当時13歳の西岡誠吾さん(92)=廿日市市=は、1枚目の中央に写る千田派出所のそばに逃げていた。広島県立広島工業学校(県工、現県立広島工業高)1年生。同級生は爆心地から約600メートルの中島新町(現中区)での建物疎開作業に動員されていたが、体調を崩していたため校内での別の作業をあてがわれた。
御幸橋に近い同校は爆心地から約2キロ。校門を入った所で、「火の中に放り込まれたような熱さを感じて身を縮めました」。爆風に吹き飛ばされ、倒れた木造校舎の柱の下敷きになった。
助け出されたが、顔の左側にやけどを負い、歩くと、けがをした左足から靴の中に血があふれ、音がした。千田派出所のそばには、上級生2人の肩を借りてたどり着いた。「おーい」という弱々しい声をかけられ、見ると、上半身裸で大やけどを負った別の上級生が横たわっていた。
家は、猛火に隔てられた西白島町(現中区)にあった。不安な気持ちでいるとき、カメラを持った松重美人さんを見たという。「『スパイじゃ』と言う人もいました。何だか、慌てた悲しい顔をして立ち去りました」
西岡さんはその後、坂村(現坂町)の救護所に収容されるなどして一命を取り留めた。建物疎開に出た県工の同級生は全滅。幼なじみの県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年柳川朋子さんも建物疎開に出て犠牲になった。
御幸橋西詰めよりも爆心地に近い8月6日の写真は残っていない。「どんなにか熱かったろう、苦しかったろう」。奪われたおびただしい命を、西岡さんは思い続ける。
写る被爆者 「負傷者の波・泣き叫ぶ学徒…」
御幸橋西詰めの写真に写っている被爆者は誰なのか。戦後の本人や遺族の申し出や関連する証言の一部を紹介する。
①は河内光子さん(2018年死去)が生前、自分だと名乗り出た。広島女子商業学校(現広島翔洋高)2年で、爆心地から約1・6キロの動員先の広島貯金支局で被爆。近くで仕事中に大やけどを負った父や同級生と逃げた。
「父の手を引くと、右腕の皮膚がずるっとむけました。びっくりして焼けていない方の左手を持って逃げました」(広島平和文化センターが10年に収録した証言映像)
②は、医師松林保太郎さん(1961年死去)の遺族が「家族から見て間違いありません」と21年に本紙の取材に明かした。倒壊した自宅兼医院からはい出て、腕のけがを押して救護をした。建物疎開に動員されて被爆した中学1年生ぐらいの学徒が忘れられないと手記につづっている。
「(学徒は)全身火傷びらん疼痛を訴え泣きながら、『今日休むと言ったのにお母さんが是非出なさいと言ったからこの災厄にあった』と泣き叫んでいた」(70年刊の「原爆日記」収録)
③は藤川勝行さん(2001年死去)とみられる。当時29歳の宇品署警察官。負傷者のやけどに油を塗り、救護した。
「『助けてくれ』と悲鳴をあげる負傷者が波のようにやってきました。(略)その場で倒れ込み動けなくなる者もあり手の施しようもありませんでした」(89年刊の「原爆回想録」収録の手記)
後ろ姿の少年は 遺骨不明の沓木さん 遺族ら証言
御幸橋西詰めの2枚目の写真に、耳の大きな少年の後ろ姿が写る。被爆後に遺骨も見つかっていない沓木(くつき)明さん=当時(12)=だと、遺族や同級生が証言している。
広島市立中(現基町高)の1年生で小網町(現中区)一帯の建物疎開作業に動員されていた。「行ってきます」と段原末広町(現南区)の家を出た後、原爆がさく裂。家族が救護所をいくら捜しても見つからず、行方は分からなかった。
その23年後。母の故ヒサさんが読んでいた本でこの写真を見つけた。「明がここにいます」。父の故良之さんもわが子と確信した。「幾度となく写真を見入り、可愛いやと、胸にひしといただき、可愛想にどんなにか帰りたくもがいたことだろう」と1977年の手記「真如の月やどる」に記す。仏前に写真を供えたという。
「沓木君で間違いないね」。被爆者の新井俊一郎さん(92)=南区=と高田勇さん(92)=同=も写真の少年を見て、断言する。広島師範学校男子部付属国民学校(現広島大付属東雲小)で同級生だった。
「やっぱり耳。少し猫背的なところも」と高田さん。新井さんは「ある日、高射砲の弾がさく裂した断片を拾って自慢げに持ってきて、『怒られやせんか』とわーわーなった」と懐かしむ。
沓木さんの詳しい最期は今も分からない。原爆資料館の被爆体験証言者として、多くの少年少女の被爆死を伝えてきた新井さんは「『もし、この少年が自分だったら』と若い人に写真を見て考えてほしい」と願う。
(2024年8月6日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 1945年] きのこ雲 思わず撮影
[ヒロシマドキュメント 1945年] 中心部壊滅 負傷者を似島へ
苦しむ市民 松重さん葛藤の末 涙の撮影
「目の前で雷が落ちたのかと思うほどの光でした」。松重さんは、広島平和文化センター制作の証言映像(86年収録)で「あの日」を振り返っている。被爆当時、中国新聞社の写真部員で32歳。出勤のため家を出た後、トイレに行きたくなって自宅に戻ると、突然閃光(せんこう)が走り、爆風で壁にたたきつけられた。
後に分かる爆心地から約2・8キロ南東。近くの御幸橋を渡って新聞社がある市中心部に向かおうとした。だが、火炎の勢いを見て引き返した。
御幸橋西詰めに戻ると髪や皮膚が焼けただれた負傷者が群がり、うめき泣いていた。爆心地から約2・2キロ。「若いお母さんが小さい子どもを抱いて『目を開けてちょうだい』と言いながら走り回っていました。本当に地獄でした」(証言映像)
松重さん自身は傷が軽かっただけに、苦しみ、今にも息絶えようとする人たちにカメラを向けるのは申し訳ない気持ちだった。ためらった末、カメラマンとしての務めを果たした。
「『ひどいことをしやがったな』といゝながら一枚写真を撮った。憤激と悲しみのうちに二枚目のシャッターを切るとき、涙でファインダーがくもっていた」(52年刊の「原爆第1号ヒロシマの写真記録」収録の手記)。70年の別の手記では、苦しむ被災者に「ゆるしてくださいよ」と謝る気持ちでシャッターを切ったと書いている。
御幸橋の2枚は午前9時半ごろから11時ごろの撮影。午後、火炎の衰えを感じて中心部に入った。爆心地から200メートルほどの紙屋町(現中区)で、焼けた電車内に裸の遺体が折り重なっているのを見た。中心部を歩いている間は、1枚も撮れなかったという。亡くなった人の姿が「あまりに気の毒でかわいそう」だったからだと証言している。
逃れてきた西岡さん 顔にやけど 「家に帰りたい」
「ぼうぜんとして『家に帰りたい』ばっかりでした。街の中心の方は火の海。川にはたくさんの死体が流れていました」
当時13歳の西岡誠吾さん(92)=廿日市市=は、1枚目の中央に写る千田派出所のそばに逃げていた。広島県立広島工業学校(県工、現県立広島工業高)1年生。同級生は爆心地から約600メートルの中島新町(現中区)での建物疎開作業に動員されていたが、体調を崩していたため校内での別の作業をあてがわれた。
御幸橋に近い同校は爆心地から約2キロ。校門を入った所で、「火の中に放り込まれたような熱さを感じて身を縮めました」。爆風に吹き飛ばされ、倒れた木造校舎の柱の下敷きになった。
助け出されたが、顔の左側にやけどを負い、歩くと、けがをした左足から靴の中に血があふれ、音がした。千田派出所のそばには、上級生2人の肩を借りてたどり着いた。「おーい」という弱々しい声をかけられ、見ると、上半身裸で大やけどを負った別の上級生が横たわっていた。
家は、猛火に隔てられた西白島町(現中区)にあった。不安な気持ちでいるとき、カメラを持った松重美人さんを見たという。「『スパイじゃ』と言う人もいました。何だか、慌てた悲しい顔をして立ち去りました」
西岡さんはその後、坂村(現坂町)の救護所に収容されるなどして一命を取り留めた。建物疎開に出た県工の同級生は全滅。幼なじみの県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)1年柳川朋子さんも建物疎開に出て犠牲になった。
御幸橋西詰めよりも爆心地に近い8月6日の写真は残っていない。「どんなにか熱かったろう、苦しかったろう」。奪われたおびただしい命を、西岡さんは思い続ける。
写る被爆者 「負傷者の波・泣き叫ぶ学徒…」
御幸橋西詰めの写真に写っている被爆者は誰なのか。戦後の本人や遺族の申し出や関連する証言の一部を紹介する。
①は河内光子さん(2018年死去)が生前、自分だと名乗り出た。広島女子商業学校(現広島翔洋高)2年で、爆心地から約1・6キロの動員先の広島貯金支局で被爆。近くで仕事中に大やけどを負った父や同級生と逃げた。
「父の手を引くと、右腕の皮膚がずるっとむけました。びっくりして焼けていない方の左手を持って逃げました」(広島平和文化センターが10年に収録した証言映像)
②は、医師松林保太郎さん(1961年死去)の遺族が「家族から見て間違いありません」と21年に本紙の取材に明かした。倒壊した自宅兼医院からはい出て、腕のけがを押して救護をした。建物疎開に動員されて被爆した中学1年生ぐらいの学徒が忘れられないと手記につづっている。
「(学徒は)全身火傷びらん疼痛を訴え泣きながら、『今日休むと言ったのにお母さんが是非出なさいと言ったからこの災厄にあった』と泣き叫んでいた」(70年刊の「原爆日記」収録)
③は藤川勝行さん(2001年死去)とみられる。当時29歳の宇品署警察官。負傷者のやけどに油を塗り、救護した。
「『助けてくれ』と悲鳴をあげる負傷者が波のようにやってきました。(略)その場で倒れ込み動けなくなる者もあり手の施しようもありませんでした」(89年刊の「原爆回想録」収録の手記)
後ろ姿の少年は 遺骨不明の沓木さん 遺族ら証言
御幸橋西詰めの2枚目の写真に、耳の大きな少年の後ろ姿が写る。被爆後に遺骨も見つかっていない沓木(くつき)明さん=当時(12)=だと、遺族や同級生が証言している。
広島市立中(現基町高)の1年生で小網町(現中区)一帯の建物疎開作業に動員されていた。「行ってきます」と段原末広町(現南区)の家を出た後、原爆がさく裂。家族が救護所をいくら捜しても見つからず、行方は分からなかった。
その23年後。母の故ヒサさんが読んでいた本でこの写真を見つけた。「明がここにいます」。父の故良之さんもわが子と確信した。「幾度となく写真を見入り、可愛いやと、胸にひしといただき、可愛想にどんなにか帰りたくもがいたことだろう」と1977年の手記「真如の月やどる」に記す。仏前に写真を供えたという。
「沓木君で間違いないね」。被爆者の新井俊一郎さん(92)=南区=と高田勇さん(92)=同=も写真の少年を見て、断言する。広島師範学校男子部付属国民学校(現広島大付属東雲小)で同級生だった。
「やっぱり耳。少し猫背的なところも」と高田さん。新井さんは「ある日、高射砲の弾がさく裂した断片を拾って自慢げに持ってきて、『怒られやせんか』とわーわーなった」と懐かしむ。
沓木さんの詳しい最期は今も分からない。原爆資料館の被爆体験証言者として、多くの少年少女の被爆死を伝えてきた新井さんは「『もし、この少年が自分だったら』と若い人に写真を見て考えてほしい」と願う。
(2024年8月6日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 1945年] きのこ雲 思わず撮影
[ヒロシマドキュメント 1945年] 中心部壊滅 負傷者を似島へ