ヒロシマドキュメント 証言者たち 松井美智子さん(後編)
25年4月4日
仲間の無念を胸に発信
原爆孤児となり、戦後10年を必死に生きた若者で結成した「あゆみグループ」。松井美智子さん(89)=広島市南区=たち創設メンバーが機関紙の号数を重ね、その存在は少しずつ世に知られるようになる。
発会の翌1956年には、亀井文夫監督の記録映画「生きていてよかった」に登場した。「本当につらかった、みなしごの10年」というナレーションと共に、松井さんが映し出される。場所は身を寄せていた叔父の家。まだ自室に置いていた両親の遺骨も撮られた。
原水爆禁止運動の高まりから、メンバーが各地で体験を語る機会が増えていく。そのぶん、不理解に傷つきもした。松井さんは、ある会場で横断幕に「原爆娘来る」と書かれた。「なぜケロイドがないのか」と問われたこともある。
67年夏、運動への不信感を高める出来事が起きた。白血病と闘っていた仲間の男性が検診先の原爆傷害調査委員会(ABCC、今の放射線影響研究所)で倒れ、危篤状態に陥った。松井さんは輸血の協力者を求め、ちょうど市内で開かれていた二つの原水禁世界大会へ。しかし、一方の関係者には拒まれた。東西冷戦下で、ABCCが米国の施設だから―という理由だった。
もう一方からは3人が協力してくれたが、男性は8月8日に息を引き取る。まだ35歳。やはり原爆孤児だった仲間の女性と結婚し、子ども2人を授かっていた。「一人の命も救えず、何が平和運動か。今も許せんのです」
71年、次なる別れと出会いがあった。戦後を共に生き、晩年は長く寝たきりだった祖母が他界。その四十九日の席で縁談が持ち上がる。
相手は元高校教諭で、家業のたばこ店を継いでいた昭三さん(96)。今も暮らす自宅の縁側で原爆に遭っていた。同居の義母も被爆者。「両親の位牌(いはい)と一緒に嫁ぎたい」という松井さんの願いを快く聞き入れてくれた。
結婚8年目。またも試練が訪れる。松井さんは43歳でがんを発症。胃の4分の3を切除した。その5年後には、複数のがんを患っていた仲間の女性を見送る。闘病中に原爆症認定を申請したが、爆心地から2キロより少し遠くにいたのを理由に却下され、失意の底で亡くなったという。52歳だった。
原爆被害を認めようとしない国への怒りに、背を押されたのかもしれない。今の広島労働局に勤めていた松井さんは88年に関連の労働組合に推され、久々の証言に臨む。
会場は、第3回国連軍縮特別総会が開かれていた米ニューヨーク。一人でも多くの声を届けようと渡航前に原爆養護ホームを訪ね、入所者3人から聞き取った体験を英文にまとめるなど、発信に尽くした。
伝えるべきを伝え、以後は活動から遠のいた。山好きの夫と山岳地を旅する時間もでき、「私の戦後も終わった」と思えるようになっていた。
しかし、今の世界には不穏な空気が漂う。「戦争は人を狂気に走らせる。だから原爆が使われん保証もない」と松井さんは警告する。「あの戦争で何が起きたか。仲間の無念を知ってほしい」。今回は「生き残った者の責務」として、取材を受けたのだという。
8月6日の朝は毎年、両親の位牌を置いた小さな仏壇の前で過ごす。途端に当時の光景がよみがえる。「この日だけは涙が出るんよ」。被爆者の戦後に終わりはないのかもしれない。(編集委員・田中美千子)
(2025年4月4日朝刊掲載)
[ヒロシマドキュメント 証言者たち] 親奪われた者の苦難 忘れないで 「あゆみグループ」の松井さん
ヒロシマドキュメント 証言者たち 松井美智子さん(前編)