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連載・特集

ヒロシマの記録-遺影は語る 天神町南組

平和大通りの町 嘆きと鎮魂の譜
※1998年12月15日付け特集などから。

■記者 西本雅実 

 デルタに浮かぶ「水の都」広島市の中心部を幅100メートル、東西4キロにわたって貫く平和大通り。原爆被災からの再生と崩れぬ平和への誓いを、平和記念公園とともに刻む。公園そばを流れる元安川に架かる平和大橋西詰め一帯は、かつて「天神町南組」と呼ばれていた。

 戦前、広島最大の繁華街・中島地区の一角にあった南組。「天神さん」の愛称で親しまれ、江戸時代から続く町名の由来となった天満宮や、寺、問屋・商店、医院、借家が、南隣の主水町にあった県庁へ延びる細長い道筋に連なっていた。

 「わが家は建物疎開を免れたため、母は原爆の2日前、子どもたちと疎開先から父の元へ戻ってきたんです」。広島市安佐南区に住む渡辺雅さん(71)は家族6人を失い、独りになった。生家跡は同公園と平和大通りの境に当たる。「市職員になってからも長い間、8月6日には、あえて広島を離れていました」。東区長を務めた渡辺さんは、ぽつり漏らした。

 総力戦を唱えた国の強制的な建物疎開で、南組は1945年4月ごろから、県庁に近い家屋から順に取り壊されていく。同市安佐北区に住む藤井忠枝さん(82)は「何とか借家が見つかり、親子五人が移ったんですが…」。転居した舟入川口町(中区)で被爆し、3歳の二男を亡くした。

 中島国民学校(中島小)に通っていた南組の3年生以上の子どもたちは、広島県北の双三郡三良坂町の寺に学童疎開していた。そこで広島の壊滅を知った。四年生だった男性(63)は「秋になっても両親は迎えに来なかった。日帰りで、がれきの街と学校跡を訪ねて観念した」と言う。残された兄弟三人とも「原爆孤児」と呼ばれた日々を、歯を食いしばって歩んだ。

 今回の調査は、南組慰霊碑建立に力を尽くした亀石茂さん(79年死去)が残した記録を手掛かりに、辛酸を強いられた遺族の協力を得て進めた。45年末までに亡くなった88人と翌年の1人、47年1人、52年1人の計91人の被爆死状況が判明し、そのうち68人の遺影が見つかった。

 併せて、父と長女の親子二代にわたる原爆体験記の提供を受けた。13歳の少女は、自宅があった南組から県庁付近に及ぶ建物疎開作業に動員されて爆死した。学徒、職域、市内・郡部の町内会などでそれぞれ組織された国民義勇隊は「あの日」、平和記念公園と平和大通りとなる一帯に集まっていた。


爆心約600メートルの元安川右岸から撮った中島地区の焼け跡(平和記念公園と平和大通り)。手前のがれきが見える辺りが天神町。吹き飛ばされた墓石は、材木町の慶蔵院跡とみられる。向こうに原爆ドーム、その右に燃料会館(レストハウス)、左に旧広島商工会議所が見える。左端の建物は中島本町にあった日本簡易火災広島支店。その右に続いているように見えるのは本川小(1945年11月ごろ。米軍返還資料から)

天神町南組の死没者名簿



天神町南組

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