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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 市女 学徒動員の記録 <2> 過酷さ伝える日誌

4交代の小隊 砲弾造り

「まるで軍隊」死亡者も

 学徒の通年動員が始まった1944年春以降、各地の旧制中学や高等女学校の3、4年生たちが軍需工場へ派遣され、その数はどんどん膨らんでいった。

 加藤(旧姓富永)八千代さん(92)=広島市西区=は、市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の4年生だった44年11月から日本製鋼所西蟹屋工場(現南区)での作業に組み込まれた。「学校は指揮系統がはっきりして生徒を動かしやすいからでしょうね。まるで軍隊組織でした」と振り返る。

「戦死覚悟ニテ」

 引率教員を筆頭に「学徒報国隊」を編成し、生徒たちは「小隊」に分かれた。朝勤、昼勤、夜勤、暁勤の4交代で24時間。戦時中の電力不足で工場の稼働を止める「電休日」の第1月曜が、唯一の休みだった。

 翌年3月になると新3年生約250人が追加で投入された。終戦時は約650人もの市女生が働いていたとみられる。

 14~17歳の少女にとって、慣れない機械を操作して機関砲の弾を造る作業はけがと隣り合わせだ。「金属片左眼球ニ飛ビ角膜ニ疵(きず)アリ。医療室ニ連行」「午后(ごご)六時、旋盤ニテ負傷、右手指ヲ爪ヲ削ギ断ツ」。舟入高に残る学徒勤労日誌に記録がある。

 戦地の苦境が伝えられると、教員は生徒たちを鼓舞した。「皇軍将兵ト同様ニ職場ニ戦死ノ覚悟ニテ一路邁進(まいしん)スベシ」。サイパン島で日本軍が全滅したニュースを受けた44年7月19日付の日誌の一文だ。

 我慢して働き続けたからだろうか。同じ頃、夜勤を終えた4年生が帰宅直後に虫垂炎で倒れ、死亡した。ほかの工場でも動員中の死者が出ており、広島市長などに宛てた計5人の死亡報告書が残っていた。

劣悪な労働環境

 市女は呉海軍工廠(こうしょう)をはじめ、日本製鋼所を含む広島市内4カ所に生徒を送り込んだ。特に労働環境が劣悪だったのが、舟入川口町(現中区)にあった軍服製造の「西部被服工場」だという。「工員に配慮がなくひどいとうわさになり、先生も心配していました」と加藤さん。

 「学徒勤労動員状況報告」に証言を裏付ける記述がある。47人が午前7時半から9時間半、働きづめだった。「待遇、其(その)他ニ付、極メテ遺憾ノ点多シ」「生徒ノ不満モ多シ。考慮ヲ要ス」とある。「学徒ナンテ居ナイ方ガヨイ」「オ前ハ役ニ立タン」と工員が生徒に悪態をついていた。

 教師が工場側と交渉したものの一向に改善せず、日を追うごとに欠席者が増えた。ついに45年3月、市女は西部被服への動員を停止。生徒たちは、別の動員先に配置転換された。

 その一人に加藤さんの同級生、下岡孝子さんがいた。日誌には、欠席や体調不良の理由が記録されている。卒業とともに、市女のあっせんで女子挺身(ていしん)隊員として水主町(現中区加古町)にあった県庁へ配属された。つらい作業から解放されたはずだった。しかし17歳になった翌月、下岡さんは爆心地から約900メートルであの日を迎えた。記者の祖母の妹に当たる。

 平和大通り沿いに市女の原爆慰霊碑があり、傍らの死没者名簿に676人の名が刻まれている。わずか4カ月前まで在籍していた大叔母の名前は、そこにない。遺骨も見つからないままだ。(桑島美帆)

(2021年7月20日朝刊掲載)

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