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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 放射線 未知の原爆死診断 「火傷」「中毒症」の記述 安佐南の医院 61人分の控え現存

 広島に米軍が原爆を投下した1945年8月6日から翌年1月にかけて亡くなった被爆者61人の死亡診断書の控えが、広島市安佐南区沼田町の診療所「大中医院」に残されていた。広島を壊滅させた「新型爆弾」の実態が不明な中、次々と亡くなる患者の死因を「火傷」「中毒症」と記しており、未知の事態に手探りで対応した医師の姿が浮かぶ。(明知隼二)

 「死亡診断書控」と表書きした色あせた布張りの日記帳。死没者の名前や死因、発症日や死亡日など、主要な項目が万年筆で記されている。院長だった大中正己医師(1889~1976年)が、診断書を役場に提出する際の記録として書き残していた。

 診断などから原爆死とみられるのは61人。主に地元住民で、近くの国民学校に収容された人も含まれる。うち53人は8月6日発症とされ、56人は9月末までに死亡。年齢は確認できるだけで0~72歳と幅広く、原爆が無差別に市民の命を奪ったと分かる。当時、住み込みで医院を手伝った橋本アキミさん(91)=同=は「先生は昼も夜もなく治療していた」と振り返る。

 死因は8月半ばまではほぼ全て「火傷」、下旬からは「中毒症」が急増する。「広島原爆医療史」(61年、広島原爆障害対策協議会)は放射線の影響について、初期の調査から「中等度のものでは二週間から六週間の間に重篤な症状となって多くの死亡者を出す」とし、下痢や脱毛、出血などの症状を挙げる。診断書控に細かな症状の記載はないが、急増する急性放射線障害を「中毒症」と診断していたとうかがえる。

 明確に「原子爆弾症」の表現が現れるのは9月上旬以降。東京帝国大の都築正男教授が同月3日に広島で放射線の影響について講演し、報道された後だった。診断書控には、それ以前の初期の診断の余白にもかっこ付きで「原子爆弾症」の記載がある。インクの色や濃さが違い、後に書き加えたとみられる。

 大中医師は20年に現在地に開業。当時、地域で医院を構える医師2人のうちの1人だった。もう1人の白井義道医師(1897~1964年)の救護時のメモを基にした負傷者名簿も73年に見つかっている。

 現院長で孫の稔文さん(63)は取材を機にあらためて診断書控を開いた。「祖父は私には何も語らなかったが、こうして見てみると原爆直後に診ていたと実感します」。医院とともに受け継いだ記録。原爆の非人道性に直面した医師である祖父の苦闘が刻まれている。

(2021年7月30日朝刊掲載)

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