ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 直後のカルテ <1> 似島の記録
21年7月30日
広島湾に浮かぶ似島(広島市南区)。米軍の原爆投下後、島内の陸軍検疫所は臨時の野戦病院となり、1945年8月6日からの20日間で約1万人の負傷者が運ばれたとされる。混乱の中、一人一人の傷や病状を医学的に記録した資料はほとんど残っていない。
しかし、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研、南区)に、わずかながら空白を埋める資料がある。陸軍軍医だった故山科清さんが8月10~15日に残した犠牲者12人の病理解剖記録、通称「山科資料」だ。
調査で広島入り
東京にいた山科さんは原爆投下の翌日、陸軍省から広島の調査を命じられた。「唯一発の特殊爆弾によって、一挙にして十三万人の死傷者を出した、どんな種類のものか分からないから防毒面等も携行せよと言う位のことしか聞かされなかった」(山科さんの手記)。同省調査班の一人として8日に空路で広島入りした。
10日朝、似島で13歳の少年の遺体にメスを入れた。被爆の影響を明らかにするための病理解剖の最初の例とされる。調べた12人の大半の直接の死因はやけどや外傷だったが、放射線の骨髄への影響などが記録された。戦後、米軍は山科さんに記録の提出を求め、英訳版を作って持ち帰った。
原本は戦後、山科さんが広島大に寄贈。73年に英訳版が米国から日本側に返された「米軍返還資料」の一つとして広島大に所蔵されることになり、原本にも光が当たった。
今回、記者があらためて報告書を繰ると、8月10日に亡くなっていた「大西密善」さんの記述に目が留まった。死去の前に聞き取ったとみられる被爆場所の記述の中に「材木町」とあったからだ。爆心地近くで壊滅し、今は平和記念公園(中区)となった街だ。
気になって本紙が材木町の犠牲者を追った2000年の特集「遺影は語る」の紙面を開くと、1字違いの人がいた。大西密禅さん。安産祈願の場として親しまれた安楽院の住職。妻と12歳から生後5カ月の子ども3人も被爆死していた。そして、やはり似島で亡くなったとある。
やむなく「6日」
「まさか、こんな資料があったとは…」。遺族の大西茂子さん(82)=呉市=に資料を見てもらうと、驚きを吐露した。学童疎開していて助かった大西さんの長男の佳夫さん(2003年に67歳で死去)の妻だ。
大西さんの最期については、被爆10年後の55年に原爆供養塔に遺骨があるのが分かったのを機に、似島で亡くなったことが判明した。しかしそのことを除いて詳しいことは不明だった。呉市内の墓にやむなく刻んだ死亡日は「八月六日」。資料が大西さんの記録ならば、真実は10日だった。「顔面、上下肢、背部ニ挫傷」「死亡前日ヨリ意識混濁」…。資料は、原爆でいかに傷つけられたかを伝える。
「夫に見せたかった。かわいがってくれた父の最期が分かると、喜んだはずです」。痛ましい記述にも茂子さんはそう受け止めた。生前の佳夫さんは家族の証しを残そうとしていたからだ。
安楽院は原爆で姿を消した。寺を継ぐはずだった佳夫さんは戦後、電力会社に勤めた。亡くなる4年前、原爆投下前月に父から疎開先に届いた手紙を原爆資料館に託した。「からだは別れ別れに暮しても心ろは皆んな一所に居りませう」―。家族を思う文面と山科資料とを重ね合わすと、記者は胸を締め付けられた。
山科資料には不明瞭な点も残る。材木町の屋内で被爆したとあるが、原爆投下の少し前に寺から出るのを見たと家族に話した近所の人がいたという。忘れ物があり寺に戻ったのか、資料が間違いなのか―。佳夫さんの姉が健在のため話を聞ければと思ったが、体調が悪く、かなわなかった。(水川恭輔)
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核兵器の非人道性の証拠である医学資料。証言や別の資料と結びつけて埋もれた事実に迫り、保存や活用の課題を考える。
(2021年7月30日朝刊掲載)
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