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連載・特集

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 直後のカルテ] 最期の記録 眠ったまま

 1945年末までに原爆により犠牲になった14万人±1万人(推計値)の多くは、十分な治療を受けられないまま命を落とした。混乱の中で、医師が記したカルテや死亡診断などはわずかしか残っていないが、広島大などの一部機関に、その空白を埋める貴重な医学資料が点在している。熱線と爆風、放射線による人的被害を記録した第一級資料だ。しかし体系的な保存の取り組みは乏しく、被爆から76年を経て散逸や経年劣化が懸念されている。(明知隼二、水川恭輔)

死因の欄 「火傷」続く

赤チンを塗り ガーゼを替えるしかできなかった

広島郊外の診療所「大中医院」

 爆心地の北西約14キロ、広島市中心部から峠を二つ越えた戸山村(現安佐南区)の大中医院。原爆が投下された8月6日の夕方から、続々とけが人が押し寄せた。「待合室に入りきらず、石段の下の道路まであふれていた」。看護学生として医院を手伝った戸沢トシエさん(91)=同区=は、郊外の診療所を襲った未曽有の混乱を振り返る。

 院長だった大中正己医師が残した死亡診断書控では、8月半ばまでの死因の欄に延々と「火傷」の2文字が並ぶ。「市内は全滅らしいという、うわさ程度の情報だけ。とにかく先生が赤チンを塗り、私がガーゼと包帯を替えてあげるくらいしかできなかった」。翌日には、さらに悪化した状態の人が運び込まれた。

 市が編さんした広島原爆戦災誌(1971年刊)によると、戸山村では避難者366人を学校や寺、民家に収容。うち288人が亡くなっている。診断書控に記録された61人に限っても50人以上の死亡が被爆から約1カ月に集中していた。

 現在も同じ場所で医院を継ぐ、孫で現院長の稔文さん(63)は「もし今同じ事が起きたとしても、個人医院では何もできないと思う。今ほど薬や設備のない当時ならなおさらでしょう」と、祖父が置かれた状況を推察する。「死んでいく患者を見守るだけというのは医師として一番つらいことです」。当時の状況を、医師を目指す高校生だった孫に何一つ語ることなく逝った祖父の胸中を思いやった。

 診断書控に記された死没者の中に生後5カ月の男の子がいた。砂田博さん。村外からの避難者とみられ、名前などを手掛かりに調べると、姉久子さん(83)=東区=が見つかった。「私も当時は幼く、細かな記憶はないんです」と前置きしつつ、戸山に避難した記憶をたどってくれた。

 あの日、母キミコさんは南蟹屋町(現南区)の自宅から、地域の当番で鶴見橋付近の勤労奉仕に出かけた。背中には博さんを背負っていた。顔や肩にやけどを負って帰ってきたのは夕方。壊れた自宅にはとどまれず、近所の人とトラックに乗り合わせて戸山に逃れ、学校の講堂に収容された―。

 学校で寝泊まりをしていたある日、母の隣でいつも眠っていた弟の姿がなかった。「どうしておらんの」と問うと、母は「帰らん人になった。あの星になったんよ」と空を指した。診断書控によれば、亡くなったのは終戦翌日の16日。死因はやはり火傷と記された。

 南蟹屋に戻ったのは8月末ごろ。戦後生まれを含む健在のきょうだい5人のうち、博さんを記憶するのは長姉の久子さんだけという。「私が心に留めておけばいいと思っていたけど、こういうものがあったんですね」。書き残された弟の名前を見つめた。

 診断書控を精査する中、9月4日に「中毒症」で亡くなった67歳の男性が目に留まった。死亡場所は砂田さんと同じ学校。やはり避難者か、運び込まれた負傷者だろう。調べてみると、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)に「8月6日死亡」との記録があった。自宅は現在の中区で全壊・全焼区域。家族も行方が分からず、被爆当日を死亡日としたのではないか。

 電話帳や親類の情報をたどって男性の息子は特定できたが、既に亡くなっていた。自宅も売り払われ、記録からもそれ以上の追跡はできなかった。男性の別の遺族は祈念館に「生き地獄。思い出したくもなし、言いたくもない」との言葉だけを残していた。

 被爆後、特にゆかりのない郊外に逃げたり、運ばれたりした負傷者は多い。その治療を担ったのは多くの場合、地元の医師だった。遺族が探し求める家族の最期の記録が、各地の医院に眠る可能性はまだ残されている。

解剖の詳細や標本 点在

個人情報 活用できぬ例も

 被爆者の体内で何が起きたのか―。医師や研究者たちは被爆直後から医学的な解明を視野に、記録を書き残した。写真や証言とは別の視点で、放射線被害を伝えている。

 被爆に関する医学資料を保存する拠点の一つとなっているのが、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研、南区)だ。例えば京都大医学部の調査班による被爆者の記録。1945年9月、800人以上の被爆者から被爆した場所や状況を詳しく聴き取り、病状や血液検査の結果も残る。

 米国が占領下の広島から持ち帰り、73年に日本に返還された資料もある。多くの負傷者が運び込まれた似島での解剖記録などが含まれ、いずれも最初期の医学の記録として貴重だ。一部は原医研で展示したことがあり、保存と活用の両面で模索が続いている。

 一方、失われた資料もある。江波町(現中区)にあった三菱重工業広島造船所の構内診療所では、放射線の知識を持つ医師が直後から被爆による急性障害の可能性に気付き、けが人から採血。白血球の減少を確認して輸血治療をした上、血液標本も作っていた。

 別の医師は死没者2人を解剖し、記録や内臓標本を保管した。しかし同年12月、診療所の火災で両医師による記録と標本は焼失した、と広島原爆医療史(61年、広島原爆障害対策協議会)は記す。

 資料は残っていても、個人情報が壁となり、活用できていないケースも多い。広島県立文書館(中区)は、現東広島市にあった傷痍(しょうい)軍人広島療養所(現東広島医療センター)に収容された被爆者のカルテ218点の複製を保存するが、本人による閲覧を除き外部には一切公開していない。
 国立病院機構柳井医療センター(柳井市)も広島第一陸軍病院の被爆軍人のカルテを「永久保存」として残す。被爆者の名前を一人一人積み上げる広島市の「原爆被爆者動態調査」に反映はしたが、やはり現時点で外部に公開していない。
 長崎被爆を中心とする資料の中に、広島で被爆した人が含まれる例もある。佐賀県医療センター好生館(佐賀市)が受け継ぐ45、46年の被爆者75人のカルテは、広島の7人を含む。2011年に院内で見つかった後、有志が約3年がかりで精査した。九州大医学歴史館(福岡市)もカルテ30点余を所蔵。大部分が45年のもので、少なくとも7点は広島被爆関連という。今も個人情報を伏せた形で一部を展示している。

HICAREで連携・保存の声

 被爆者のカルテや医学面の調査資料は、核兵器が非人道的に人間を傷つけ、命を奪うことの極めて重要な「証拠」だ。しかし、原爆資料館(広島市中区)が収集している遺品や被爆資料、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が集めている体験記や遺影に比べると、収集や整理、保存の体制が整っておらず、特に散逸が危ぶまれている。

 日本学術会議は1971年、医学面の資料を含む被爆関係資料の整理・保存を「国家的急務」と政府に勧告した。80年代から90年代にかけて日米両政府が共同運営している放射線影響研究所(放影研、南区)が中心となり、各医療・研究機関が持つ医学資料のネットワーク化を探ったが、結局形になっていない。

 ただ今年に入り、放影研や広島大原医研など広島の8医療・研究機関と広島県、広島市でつくる放射線被曝(ひばく)者医療国際協力推進協議会(HICARE)の枠組みで連携して保存に取り組んではどうかとの声が上がっている。原医研の田代聡所長(59)が2月の設立30年シンポジウムで提起した。

 原爆後障害研究の第一人者、鎌田七男・広島大名誉教授(84)は「まずどこに、どういう資料があるのかのリストを作り、共用するべきだ。HICAREならば議論や具体化を進めやすい」と提案。被爆建物の旧陸軍被服支廠(ししょう)(南区)などの活用を念頭に「各機関が医学資料を持ち寄って一緒に展示する取り組みを進めれば、原爆資料館とは違う形で原爆の被害の実態を伝えられる」と資料の活用面での連携を期待している。

(2021年7月30日朝刊掲載)

[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 放射線 未知の原爆死診断 「火傷」「中毒症」の記述 安佐南の医院 61人分の控え現存

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 直後のカルテ <1> 似島の記録

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