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光空襲の惨状 克明に 海軍工廠 勤労動員の日記 細かく時刻「貴重な資料」

 1945年8月14日に光市の光海軍工廠(こうしょう)を標的にした空襲の様子を伝える日記が見つかった。今春98歳で亡くなった女性が、勤労動員で工廠で働いた45年初めから1年間の記録で、生前に次男に託していた。空襲の生々しい様子や戦時下の暮らしぶりをつづっている。戦史研究者は「時刻が細かく書き込まれ、空襲前後の詳細がよく分かる貴重な資料」と評価する。

 日記を書いたのは、山口市嘉川に住んでいた田中テルさん。A5判、1日1ページの日記帳に360ページを超えて書き残していた。2020年夏、次男の会社員橋本紀夫さん(68)=山口市阿知須=に手渡した。

 田中さんは地元の女学校を卒業後、20歳になった44年の年明けに、報国青年隊員として光海軍工廠で勤労奉仕を始め、終戦まで働いた。職場は魚雷のエンジンを製造する水雷部だった。

 日記によると、空襲の当日は工廠外の作業から戻り、食事の号令を受けて食堂に行こうとした午後1時10分に突然、米軍機が上空に現れ、その場に伏せた。その後、防空壕(ごう)に逃げ込んだ。「幸(い)に生きのびた」と率直な感想をつづっている。日記には時刻を記した箇所が目立つ。当時では珍しく腕時計をはめ、時間をよく確認していたようだ。

 日記は毎日欠かさず、戦時下に同僚とバレーボールをしたり、配給でドーナツを食べたりした思い出も記している。

 橋本さんは「母は大腸がんで死期が迫ったことを悟って、日記を託してくれたのだろう」と受け止める。

 国内の空襲被害を研究している元徳山高専教授の工藤洋三さん(71)=周南市須々万奥=は空襲の研究では時刻の特定が課題とし「当時は時計を着けている人も少なかっただろう。空襲の記録を個人で残しているのは珍しい」と説明する。(山本真帆)

光海軍工廠
 日本で7番目の海軍工廠として光市の海岸約4平方キロメートルに建設された。1940年10月に開庁。爆弾や魚雷を製造し、人間魚雷「回天」の出撃基地となった。終戦間際には学徒動員の約6500人を含む約3万人が働き、全国有数の規模となった。45年8月14日の米軍の空襲で、犠牲者は学徒136人を含め748人に上り、工廠内施設の7割が破壊された。

(2021年8月12日朝刊掲載)

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