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連載・特集

空襲の記憶 光海軍工廠 歴史継承へ <下> 行政の役割

消えゆく証言 発掘急務

関連遺構も活用進まず

 光市の光海軍工廠(こうしょう)をテーマにした講演会が6月から7月にかけて計3回、同市内で開かれた。工廠の成り立ちや、人間魚雷「回天」の出撃基地となり、終戦間際に空襲を受けた歴史を紹介した。市民の関心が高く、主催した市は45人の定員を100人に増やした。

 参加者の一人は「地元に海軍工廠があったのは知っていたが、今回の講演会ではっきり、その実態が分かった」と満足げだ。講師は郷土史家の秋本元之さん(85)=同市虹ケ丘。地元で数少ない工廠の歴史を詳細に知る人で、市も関連講演会に常に起用する。

展示もひっそり

 秋本さんは元小学校教諭。インドネシア・ボルネオ島の旧海軍燃料廠で戦病死した父親の生きざまを調べていた10年前、光海軍工廠のことを知った。関連の文献を調べ関係者に直接会い、分かった事実を冊子にまとめてきた。

 特に1945年8月14日、終戦前日の空襲にはこだわる。当時住んでいた隣の下松市で、光市の上空を爆弾が踊るように落ちていくのを見た。9歳の時だった。翌日、光市に住む祖父母を心配して母親と現地に入ると、目に入ったのは真っ黒になって息絶えた人がリヤカーで運ばれていく光景だった。「決して忘れることはできない」

 一方、光市が海軍工廠の歴史に向き合う姿勢は消極的だ。専門の資料館はなく、同市光井の市文化センターの郷土資料コーナーに一部の関連資料が並ぶが、他の展示物に埋もれているとの指摘がある。市内には関連の遺構も多く残る。光市教委の伊藤幸子教育長は「保存活用を進めていきたい」と言うものの、具体策は描けていない。

伝える姿勢 感心

 参考になるのは光海軍工廠と同時期に建設された豊川海軍工廠のある愛知県豊川市の動きだ。跡地の一部を取得し「豊川海軍工廠平和公園」として2018年6月に開園させた。ボランティアの語り部を置き、艦船の機銃の弾丸を製造し45年8月7日の空襲で2500人以上が亡くなった歴史の継承に力を入れる。

 3ヘクタールの園内には火薬庫や防空壕(ごう)跡があり、映像やパネルを交えて歴史を伝える平和交流館も整備した。

 豊川市の平和公園を訪れたこともある秋本さんは「行政が市民に歴史を知らせようとする姿勢がひしひしと伝わってくる」と感心する。同時に、今年3月、98歳で亡くなった山口市嘉川の田中テルさんが空襲の様子を記した日記など個人の体験の記録の掘り起こしが、歴史の継承に不可欠だと考えている。

 光市は8月14日、空襲から76年を迎えた。多くの関係者は亡くなり、残っていても高齢化している。市は民間と協力しながら、歴史継承の在り方を急いで探り、具体化に動く必要がある。(山本真帆)

(2021年8月14日朝刊掲載)

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