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連載・特集

空襲の記憶 光海軍工廠 歴史継承へ <上> 惨劇の日

「死を覚悟」 消えぬ悪夢

ペンでなぞり書き刻む

 「(午後)一時十分帰ると、食事整列の号令あり。集まらんとした時、突然敵機上空直(す)ぐ其(そ)の場に伏せた。しかし弾の音を聞いたので、壕(ごう)の穴に入る。それから、爆弾による空襲を約二時間位うける」

 終戦前日の1945年8月14日、米軍爆撃機B29の大編隊が光海軍工廠(こうしょう)(光市)を空襲した様子を記した日記の一部だ。今年3月、98歳で亡くなった山口市嘉川の田中テルさんが、工廠で働いていた時につづった。

故郷を離れ奉公

 田中さんは女学校を卒業後、44年の年明けに報国青年隊として光海軍工廠で働き始めた。魚雷のエンジンを造る水雷部に所属した。日記は45年1月31日「元気にご奉公して居(お)ります」と、故郷を離れてからの1年間を振り返る文章で本格的に始まる。この年の12月31日まで続いた。

 空襲当日の日記によると、田中さんは空襲警報が出たため午前10時45分に避難した。解除され、午後1時10分に箸箱を持って食堂に集まろうとした時「伏せろ」という声の後に爆撃の音を聞いた。一番近い防空壕に逃げ込んだ。

 後日、書き足したのか「その時の気持(ち)は今持って忘れられない。死を覚悟して皆で最後迄(まで)頑張る。幸(い)に生きのびた。これとても神のお助けと深く感謝して居る」と続く。「伊藤敏ちゃん(中略)亡(く)なれしと聞く」と同僚の死も記す。

幼なじみ亡くす

 日記は昨夏、次男の会社員橋本紀夫さん(68)=山口市阿知須=が受け取った。母からは、日記に書かれていない惨状も聞いた。

 田中さんが防空壕に逃げ込んだ時、腰には鉄の破片が刺さっていたという。隣の防空壕はより被害が大きく「助けてやって、と聞こえた声が今でも忘れられない」と話した。故郷を一緒に離れ、工廠で働いた幼なじみが空襲で死んだことも漏らした。

 戦時下の様子をうかがわせる記述も多い。光海軍工廠は人間魚雷「回天」の出撃基地でもあった。45年4月22日には「九時頃(ごろ)特攻隊の出港を拝見した。菊水の旗を立て、小舟にて潜水艦まで行く途中、あの萬才(ばんざい)々々の声」と。別の日には、特攻隊員に人形を作ってと頼まれた。敗戦を知った8月16日には「くやしくてくやしくてたまらない。必ず勝つって信じて頑張って来たのに」と書き留めた。

 日記は茶色く変色し、ぼろぼろ。鉛筆で書いた文字の上をボールペンでなぞった跡があった。「文字が消えるのを危惧したに違いない。日記を後世に伝えたかったのだろう」と橋本さん。田中さんからは当時の写真など多くの資料も渡された。空襲の歴史を伝える資料として活用せねばと思い始めている。

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 748人の犠牲者を出した光海軍工廠の空襲の様子をつづった日記を基に、当時の惨劇や歴史継承の在り方を探る。(山本真帆)

(2021年8月12日朝刊掲載)

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