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連載・特集

緑地帯 廣谷明人 奇跡の被爆バイオリン⑤

 原爆投下直後、セルゲイの長女カレリアは気を失った。気がつくと、家の壁が崩れ、舞い上がるほこりで何も見えず、彼女は自分が失明したと思った。家族全員が壁の下敷きになったが、カレリアが頭部に軽いけがを負っただけで、他の家族は無事だった。

 やがて無数の被爆者が広島市の中心から牛田に押し寄せ、さらに市外へと避難していった。一家は身の回りのわずかの物とバイオリンを持って、その無言の集団に加わった。しかし病弱な妻のアレキサンドラを連れて長くは歩けず、セルゲイは食べ物を求めて一軒の家をたずねた。驚いたことに、その家主は彼らに食事を与え、数日間宿泊させてくれた。孫のドレイゴ氏の著書によれば、その「マツモト」家には、見ず知らずの10家族が身を寄せていたという。

 カレリアはそこから近くの陸軍病院に数日間通い、被爆者の治療と看護を手伝ったが、心労と激務で倒れてしまう。戦後、米国戦略爆撃調査団は広島の被爆者に面接調査を行った。カレリアの証言は唯一英語で行われたもので、被爆時を詳細に語っている。

 不思議なのは、原爆投下後の惨状にあって、誰もパルチコフ一家が外国人であることを気にもせず、一緒に助け合っていたことだ。極限の状態に置かれた人たちはただ「生きること」と「生かすこと」に必死だったのだろうか。

 終戦後、一家は他の白系ロシア人とともに県北東部の帝釈峡に送られ、大黒屋という旅館に2カ月ほど留め置かれた。9月のある日、セルゲイは知人を捜すために広島市内に入った。(元英語教諭=広島市)

(2021年8月20日朝刊掲載)

緑地帯 廣谷明人 奇跡の被爆バイオリン①

緑地帯 廣谷明人 奇跡の被爆バイオリン②

緑地帯 廣谷明人 奇跡の被爆バイオリン③

緑地帯 廣谷明人 奇跡の被爆バイオリン④

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