×

連載・特集

爆心地下に眠る街 <1> 本館下の米穀店

支え合う母子7人 全滅

 広島市が2017年3月まで原爆資料館本館(中区)下で実施した発掘調査で、原爆で壊滅した旧中島地区の遺構が見つかった。被害の実態を伝えるため、平和記念公園内の別の場所で遺構を公開する市の計画作りが、近く動きだす。私たちは遺構をどう受け継ぎ、次代にどう伝えるか。元住民の在りし日の記憶や継承への取り組みを基に考えたい。

 来春の再オープンへ展示改装が進む資料館本館。その真下に、かつて米穀店とそろばん塾があった。西原通泰(みちひろ)さん(77)=佐伯区=の母秋子さん(11年に93歳で死去)の実家「竹田家」。発掘で、旧材木町の通りに面した店入り口付近の遺構が見つかった。

 「この伯父も、この叔母も原爆で…」。西原さんは自宅で仏壇の遺影を取り出した。あの日まで、米穀店には祖母竹田キクヨさんと、子ども9人のうち30~14歳の6人きょうだいが暮らしていた。「かわいそうで、やれんです」。「全滅」した7人の思い出を、ぽつぽつと語り出した。

 米穀店は旧材木町97番地。夫を30代で亡くした祖母が子どもと切り盛りした。戦時下で商売が細る中、きょうだい最年長の清さんが店でそろばん塾を開き、家計を支えた。塾は近所の子どもたちでにぎわった。西原さんの母秋子さんは長女。近所で育った西原さんは、母と毎日のように訪れていた。

尽きぬ思い出

 「初孫の私を、竹田家のみんなが自分の子どものようにかわいがってくれたんです」。特に清さんはわが子のように接した。幼い西原さんをリュックサックに入れて宮島へ遊びに行こうと計画。すると祖母がかんかんに…。母から聞いた思い出話は尽きない。

 しかし、原爆が深い親戚付き合いを切り裂いた。投下前年、当時4歳の西原さんは現在の南区に転居していた。爆心地から3・5キロで被爆したが、大きなけがはなかった。一方、爆心地から約400メートルの竹田さん一家7人は誰も助からなかった。

 一家の記憶は、西原さんが年を重ねるたび、悲痛さが刻み込まれた。

 「清兄さんは子ども好きでね。好きな人もおったけど、家族を支えるため結婚を先延ばしにしとったんよ」。母からふいに明かされた。伯父が、自分をかわいがってくれた理由が分かった気がした。

遺品発掘願う

 毎夏の墓参りには、かつて竹田さん家族の友人たちの姿もあった。最近はほとんど見掛けない。忘れ去られるのを惜しみ、5年前、平和記念公園にある旧材木町の石碑を初めて訪ねた。

 発掘調査が始まると気が気でなかった。調査では竹田家前の通りの舗装が確認された。清さんが、黒焦げになって横たわっていた場所だった。

 「もし、そろばんが残っていたら…」。一家が、清さんが生きていた証しを、この目に焼き付けたい。そして、多くの人に知ってほしい―。西原さんは願う。ただ調査では、そろばんの玉の一つも確認されていない。

(2018年7月24日朝刊掲載)

[爆心地下に眠る街] 旧中島地区被爆遺構 消された暮らし 残っていた痕跡

爆心地下に眠る街 <2> 元住民のつぶやき

爆心地下に眠る街 <3> 父の職場

爆心地下に眠る街 <4> 母の記憶

爆心地下に眠る街 <5> 次世代へ

年別アーカイブ