爆心地下に眠る街 <2> 元住民のつぶやき
18年7月25日
平和願い記憶ツイート
原爆資料館本館(広島市中区)真下の発掘調査で2016年秋、浴室のタイルなどが出てきた。本館出口の階段がある辺り。旧材木町にあった銭湯「菊の湯」の遺構だった。大阪府豊中市に住む畦田(うねだ)栄一さん(89)はツイッターで菊の湯の思い出を投稿している。同じ旧材木町にあった酒店で育ち、菊の湯の常連だった。昨年末にツイッターを始め、当時からのあだ名「栄ちゃん」の名でつぶやく。
毎日銭湯通い
「材木町の銭湯は菊の湯 毎日銭湯通いだった」(今年6月29日。以下、投稿の引用は原文のまま)「子供の頃親父(おやじ)と行くのは嫌だった 100数えるまで浸かっとれ 真っ赤になり心臓が苦しくなった」(7月14日)…。
古里にまつわる投稿は、元住民の証言を集めている広島の市民団体から勧められた。「広島の方からの『いいね』の反応がうれしい」。近所の誓願寺前にあった一銭洋食の屋台や街に来た紙芝居など、にぎわった街の記憶もたどり発信する。
原爆によって消し去られた古里を懐古するためだけではない。ツイッターのプロフィル欄に「予科練、戦災孤児」と記す。「インターネットで若い人の考えを読むと、戦争というものを全然知らない」。自らの体験から戦争の現実を伝えたい、との強い思いがある。
畦田さんは広島市立第一工業学校(現県立広島工高、南区)在学中、海軍予科練習生に志願。1944年7月に入隊し、材木町の自宅を離れた。「生きて帰ることはないとの覚悟で親に黙って受験した」。翌年、福山航空隊に配属された。
見送る母の涙
45年4月、両親が福山に面会に来てくれた。近況を報告した後、駅で見送った。動き始めた汽車に畦田さんが敬礼すると、デッキの母マサコさんが突然声を上げて泣き伏せた。「おふくろは僕を止めるようなことは何も言わなかった。でも、涙が心の内の全てだったはずです」。当時を思い出す畦田さんの目は、見る見る赤くなった。
それが両親との別れになった。終戦後、壊滅した古里に戻った。父善四郎さん=当時(50)=は自宅近くの職場で被爆死し、マサコさん=同(42)、妹の桂子さん=同(7)=と元子さん=同(5)=は遺骨さえ見つからなかった。兵庫県の伯父を頼り、関西で職を得た。
「少年のヒロイズムに駆られ捨て去った故郷。その変貌の果てに家族達の地獄があった」(3月11日)。当時の決断をそう悔いた。5月3日の憲法記念日には「爆心地の家の周りはシーンとして一人ぼっちで立っていた、俺は浦島太郎か! かわりにもらった乙姫様のお土産が平和憲法!大切にしたいなあ」。
原爆、戦争に奪われた古里の暮らし。その痕跡をとどめる遺構の公開は、今の時代だからこそ必要だと畦田さんは思う。元住民のつぶやきは続く。
(2018年7月25日朝刊掲載)
[爆心地下に眠る街] 旧中島地区被爆遺構 消された暮らし 残っていた痕跡
爆心地下に眠る街 <1> 本館下の米穀店
爆心地下に眠る街 <3> 父の職場
爆心地下に眠る街 <4> 母の記憶
爆心地下に眠る街 <5> 次世代へ