爆心地下に眠る街 <5> 次世代へ
18年7月31日
悲劇の記憶 児童が継承
平和記念公園のある「広島市中区中島町」を学区に含む中島小。ことし8月6日朝、校内で「平和の集い」を開く。73年前の6年生の体験を、今の6年阿木天花さん(11)が作文にして読み上げる。「疎開場所で、両親が迎えに来るのを泣いて待つ」―。中島国民学校6年だった諏訪了我(りょうが)さん(85)=中区=の思いを盛り込んだ。
学校に本贈る
諏訪さんの実家は、原爆慰霊碑西側にあった「中島本町69番地」の浄宝寺。住職だった父令海さん=当時(57)、母クニさん=同(56)、姉玲子さん=同(16)=を原爆で失った。諏訪さんは現在の三次市内に学童疎開していた。
今の6年生約60人は、4月の平和学習で諏訪さんの体験を聞いた。関和典校長(57)が「児童に、家族を失う喪失感を自分に置き換えて考えてほしい」と講師を打診。2月、諏訪さんが世話人を務めてきた「旧中島国民学校集団疎開児童の会」が原爆、戦争を巡る約100冊の本を学校に寄贈したのがきっかけだった。
家族を失った元児童たちは、同会で旧交を温めてきた。しかし、高齢化で活動が困難に。後輩たちに記憶を継承してほしいと、残る会費で本を購入して贈った。「私たちが悲劇を伝えなければ」。阿木さんはその本を見ると、体調が優れない中、駆け付けてくれた諏訪さんの言葉を思い出す。
断たれた未来
あの日、原爆で命を奪われた中島国民学校の児童もいる。主に学童疎開の対象前だった1、2年生。平和記念公園一帯にあった旧中島地区の子どもは、原爆資料館本館辺りにあった誓願寺に設けられた分散授業所に通っていた。
「子どもが人生の出発点で未来を断たれた。同じ学びやに通った私は、その無念を伝えないといけない」と被爆者の田中稔子さん(79)=東区。多くの園児が中島国民学校に進む誓願寺の無得幼稚園に通っていた。同校1年生の夏、牛田国民学校(現東区の牛田小)に転校した。爆心地から約2・3キロで被爆し、頭や腕にやけどを負った。犠牲になった中島国民学校の同級生には、遺骨が見つかっていない人もいる。
70歳になる頃、国内外で証言を始めた。昨年6月、米ニューヨークの国連本部での集会で、自らの被爆体験と同級生の被爆死について話し、核兵器禁止条約制定を訴えた。
原爆資料館本館下の発掘調査では、誓願寺境内の一部も確認された。付近には被爆前、田中さんも遊んでいた「ひょうたん池」などの跡も埋まっているとみられる。
平和記念公園になった爆心地下に眠る街。今、多くの人が何げなく歩いている公園の一角に、語り尽くせぬ悲しみや悔恨、無念が刻まれている。田中さんは言う。「核兵器の禁止、廃絶は今を生きる人の務め。公園に立つと、地下からそう語り掛けられているように感じるんです」(おわり)
(2018年7月29日朝刊掲載)
[爆心地下に眠る街] 旧中島地区被爆遺構 消された暮らし 残っていた痕跡
爆心地下に眠る街 <1> 本館下の米穀店
爆心地下に眠る街 <2> 元住民のつぶやき
爆心地下に眠る街 <3> 父の職場
爆心地下に眠る街 <4> 母の記憶