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連載・特集

緑地帯 四国五郎先生と私 ガタロ <8>

 「八月六日(月)晴 廣島大空襲さる! 記憶せよ!」 これは四国五郎先生(以下敬称略)の愛弟の直登が日記に刻んでいた言葉である。これはいわば後世に生きる私たちに宛てられたダイイングメッセージだ。それから間もなく亡くなった直登は、被爆の痛苦にたえてこれを書いたのである。当時18歳の少年の言葉は重い。

 四国は、直登が橋の警備を命じられ、爆心地に近い常盤橋の下で地獄を体験したことを自身の日記にも触れている。そして、この「記憶せよ!」に始まる日記に応答し、被爆7年後に、「弟の墓標」と題した詩を書いている。「あれから七年、橋は悲しみも怒りも失っただろうか、いやこの丸い欄干の鉄パイプにじかに腹をつけてためすがいい、あの日がやってきたらここへやってきて、ためすがいい、生きながら燃えた炎の名残りが、さめ果ててしまうものかどうか」

 私にはこの日記や文章がどうしても人ごととして読めぬ。それは17歳で被爆死した私の叔父と符合する点が多いからである。叔父もまた絵が大好きな少年であった。

 故事に「喉(のど)元の熱さ忘れる」とある。ことしは被爆70年。現政権を見ていても、ヒロシマをなきものとするような言動が目立ち、戦争前夜を感じる。四国は著作「広島百橋」にこう記す。「このヒロシマの街に生きて戦争につながる現象に敏感に反応しこれを防ぐ側に立たない人がいるとすれば、それはもう人間ではあるまい」。やぼであろうが、表現者として現状にあらがう声を上げねばと思う。(清掃員画家=広島市)=おわり

(2015年8月6日朝刊掲載)

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