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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 市女 学徒動員の記録 <1> 「生き残り」の負い目

学籍簿の亡き友と対面

建物疎開休み悔やむ

 「入学後ノ異動及事由」の欄に鉛筆で書かれているのは、「死」の1文字。建物疎開作業に駆り出され、原爆の犠牲になった広島市立第一高等女学校(市女)の1、2年生541人の大半の学籍簿が舟入高(広島市中区)に残されている。

授業受けられず

 資料の厚みが、死者の多さを物語る。空白が目立つ成績表から、入学以来ほとんど授業を受けられずに亡くなったことが伝わってくる。

 「本当によく残してくださった…」。被爆当時、市女の2年生だった矢野(旧姓池田)美耶古(みやこ)さん(90)=西区=が6月下旬に母校を訪れ、学籍簿に記された2人の親友たちの名前と「対面」した。

 藤本喜子さんは一緒に下校する仲だった。御幸橋から川に飛び込んで泳ぎ、両手いっぱいのシジミを採った。藤本家で風呂を沸かしてもらい湯あみした。森崎悦子さんは、宇品町にあった矢野さんの自宅の近所に住んでいた。

 あの日、全てが一変した。

 前夜からひどい下痢に苦しんでいた矢野さんは、迎えに来てくれた森崎さんに欠席届を託して休むことにした。午前8時15分、爆心地から約500メートルの現在の平和記念公園南側で建物疎開作業に参加していた生徒たちの頭上に、米軍は原爆を投下した。

 遺体の判別もできない生徒が多い中、森崎さんは身に着けていた「モンペの切れ端」が身元確認につながったという。「真面目に行った子が死んで、サボったもんが生き残って」。被爆直後の混乱の中、矢野さんは森崎さんの遺族からそう責められた。藤本さんの姉に、自分は作業を休んでいたと伝えると、目の前で崩れるように倒れ込んだ。

 再び登校した終戦後の9月1日、建物疎開に動員されていた級友の全滅を知る。「ものすごいショックでした。なぜ少々体調が悪くても作業に出て死ななかったのか」。同じ境遇の友人とともに、自ら命を絶とうとしたこともある。学校近くの川岸に座り込み、飛び込もうとしたが勇気が出なかった。日が暮れて帰宅すると、家族が懸命に捜してくれていたと知り、胸がつぶれそうな思いになった。

 人目を避けて家に引きこもり、外出時はマスクで顔を隠した。しかしある時、同級生の遺族の手記を読み「1日違えば私も同じ運命だったかもしれない。生き残ったんだから、できることをやろう」と自らを奮い立たせた。以来約半世紀にわたり、被爆者運動や平和活動に力を尽くしてきた。

 「死ぬることが名誉なことだという教育をずっと受けていたからね。この子たちは戦争の中でしか生きることができなかったんです。もう、こういう子をつくってはいけない」。矢野さんはそう語り、学籍簿を両手で包み込んだ。

今もひっそりと

 今なおひっそりと生きる生存者もいる。1年5組だった南区の女性(88)は体調を崩した母親に懇願され、6日の作業を休んだ。「家に迎えに来た2人の友人が『私らも休みたい。暑いし行きたくないねえ』と言って出かけた後ろ姿と声が忘れられない」。76年間、「生き残りの非国民」と自分を責め続けている。(桑島美帆)

    ◇

 広島では12~14歳だった少年少女たちが戦争協力を強いられた末に原爆死した。舟入高が保管する当時の資料と生存者の証言、体験手記から、今を生きる私たちが胸に刻むべき教訓を考えたい。

(2021年7月19日朝刊掲載)

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