ヒロシマの空白 被爆76年 市女 学徒動員の記録 <3> 生死を分けた判断
21年7月21日
疎開急がせ 娘救った父
軍に反発した教員も
広島と長崎に原爆が投下されるまでに、東京や大阪をはじめ都市が軒並み米軍空襲で甚大な被害を受けていた。あの日広島では、重要施設を火災から守る空き地を造るため、多くの少年少女がいや応なしに動員され犠牲となった。ただ、親や学校がすべて「右にならえ」ではなかった。
国のため 疑わず
「いま生かされているのは両親のおかげ、という感謝の気持ちと、ずっと13歳のままの同級生たちへの申し訳ない思いの両方があります」。黒河(旧姓北山)直子さん(89)=西区=が打ち明けた。1944年4月に広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)に入学。同じクラスに、建物疎開を体調不良で休んだため生き残った矢野美耶古(みやこ)さん(90)=同区=がいた。
秋以降、次第に授業が減っていった。皆実町(現南区)の専売局で勤労奉仕をした時のこと。機械にたばこが詰まり、とっさに指を突っ込むと、血を噴きながら指先が切れてぶらさがった。かろうじて切断を免れた。「それでも、お国のため危険な工場で働くことに何の疑問も抱きませんでした」
45年7月1日夜から2日未明にかけての呉空襲の翌日だったと思う。夜勤明けの父一男さん(当時40歳)が慌てた様子で台屋町(現南区)の自宅に戻ってきた。「広島も危ない」。母二葉さん(80年に68歳で死去)は一男さんの指示通り、黒河さんを親類の住む吉舎町(現三次市)へ疎開させた。
8月6日、中国新聞社に勤めていた一男さんは、義勇隊の第二中隊長として木挽町(現中区中島町)一帯で建物疎開作業を指揮した。近くに市女の1、2年生が出ていた。爆心地から500メートル付近で熱線と爆風を浴びた。
火の手を逃れ、天満川に一晩漬かっていたという。目の前で市女生が「おかあちゃーん」と言いながら力尽き、下流へ流されていく。一男さんは10日に吉舎へ運ばれ、娘の顔を見るなりつぶやいた。「直子もあんな姿になっとったんじゃと思うた。疎開させてよかった…」。その3日後、息絶えた。
校長や教員が動員を阻止した学校もある。
今住(旧姓佐伯)公子さん(88)=中区=は、比治山高等女学校(現比治山女子中・高)の1年生だった。広島原爆戦災誌によると、45年8月6日は1、2年生約300人が鶴見橋(中区)付近で建物疎開作業の予定だった。
空襲の危険察知
しかし当時の国信玉三校長は、前日の警戒警報や天候から空襲の危険性を察知し、作業の中止と教室での待機を命じたという。「いつも子どもたちを思う先生でした。校長先生の一言で多くの命が助かった」と今住さんは語る。翌年春、市女の2年に編入した。原爆がなければ、生きて今住さんと机を並べた同級生が多くいたはずだ。
広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)の教員は軍の動員方針に反発し、農村動員の名目で、戸野村と原村(いずれも現東広島市)に生徒約240人を疎開させた。
生徒353人が犠牲になった県立広島第一中学校(広島一中)でも、戸田五郎教諭(2003年に91歳で死去)が建物疎開に加わる予定だった2年生の一部を自宅待機にした。「危険性のある現場に出動させて死なせるより、ずっと良いことだと判断したのだった」と戦後につづった直筆メモが残る。
戦争を推し進めた政府と軍部。行政や学校。指示にあらがった一部の教師と親―。皆、子どもを守るべき大人たちである。(桑島美帆)
(2021年7月21日朝刊掲載)
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