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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 市女 学徒動員の記録 <4> 資料をつなぐ

浮かぶ哀歓 自らと重ね

散逸防ぐ仕組み必須

 舟入高(広島市中区)に保管されている戦時中の広島市立第一高等女学校(市女)の資料の多くは人目に触れることがほとんどないが、一部は展示や研究に生かされてきた。昨年夏、1人の卒業生が2冊の学徒勤労日誌と向き合っていた。

 今春、広島県職員になった青山沙香さん(23)=中区=だ。進学先の島根大法文学部で「被爆地の女子学徒動員」をテーマに卒論を書いた。「女学生が被爆死した事実だけでなく、生存者も含め、戦時中どう生きていたのかを研究したかった」

研究に日誌活用

 母校で日誌を接写し、戦時下の法令をはじめ、学校制度や聞き慣れない用語を調べながら半年かけて読み込んだ。1957年刊行の遺族追悼集「流燈(りゅうとう)」や、被爆者で市女出身の加藤八千代さん(92)の証言と照らし合わせ、138ページの卒論を書き上げた。

 相次ぐ警戒警報を縫うように、工場労働に従事する市女生たち。日誌から懸命に働く姿を想像し、胸を痛めた。同時に、生徒を思う教師の心や、作業の合間に映画や読書を楽しむ様子にも気付く。紙質とにおい、筆跡、言い回し―。想像力をかき立てるのは、文面だけでない。「昔の市女生も私たちと一緒だった。実際に書かれたものだから、身近に感じることができた」と青山さんは言う。

 これらの資料はどのようにして残されたのか。先日、同窓会関係者が「創立六十周年記念誌に手掛かりとなる一文がある」と記者に連絡をくれた。

 40年前の冊子に、52年に市女の原爆犠牲者名簿を作成した事務員男性の回想録が掲載されている。「女子生徒が建物疎開や工場に勤労動員されていたことは知る由もなかった」。運動場の倉庫にあった保管資料から、参考になりそうな文書を事務室へ持ち帰ったとつづる。ある時、校長から資料の処分を命じられたが「こんなに大切な物を捨てていいのか」と悩み、倉庫に隠したという。

 その後、同窓会が77年に発行した「流燈」に資料の一部を転載した以外は段ボール箱にしまわれていた。

 元教諭の佐藤秀之さん(77)=南区=は84年、書類倉庫で古い資料が入った箱を見つけ、何げなく開けた時の衝撃を思い出す。建物疎開作業に参加した1、2年生の消息を記した「生徒調査表」の「死亡」欄に、チェックが並んでいた。「自分が担任だったら、と思うと心が震えた」。顧問を務める社会問題研究部の部員に日誌などを書き写させ、文化祭で発表した。

保管態勢に限界

 98年に現在の校舎に建て替わった際も、段ボールの資料は廃棄されず、新校舎へ移された。大半は校長室の棚で管理し、被爆直後の記録や一部の勤労動員日誌は、図書室に新設された「市女コーナー」で鍵を掛けて保管してきた。

 ただ、教員たちは数年で異動してしまう。資料についての情報の引き継ぎ体制などは特に決まっていない。三戸洋平教頭(58)は「生徒から、資料を見たいという要望も出ている。身近な場所に置いておきたいが、校内で保管を続けることには限界も感じている」と話す。同窓会や市教委と相談して、資料全体を公的機関に寄託することも検討する。

 組織内の実務文書の域を超えた歴史資料の存在は、学校に限らないはずだ。原本で全体が保存されてこそ、当時を知る手掛かりとしての重みは増す。確実に次世代へと引き継ぐ方策が必要ではないか。(桑島美帆)

(2021年7月23日朝刊掲載)

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