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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 市女 学徒動員の記録 <5> 思いを受け継ぐ

体験と教訓 どう未来へ

後世の責務 続く模索

 「至純ナル愛国ノ熱意ニ燃エ、個人的利害打算、愉楽ヲ求メズ」(動員視察調査文書)に働いた広島市立第一高等女学校(市女)の学徒たち。あれから76年後の今、生き残った卒業生の多くは90歳を超えている。母校の後輩たちに被爆体験を伝える担い手も、世代交代が進む。

 「幾年たっても、あの朝の元気な声、また、やさしいあの子の気持ちを忘れる事は出来ません」―。今月21日、舟入高の講堂に集まった1年生322人を前に、卒業生で被爆者の林玲子さん(80)=西区=が、建物疎開に出たきり帰らない市女生の娘を思う母親の手記を朗読した。

 市女出身の被爆者から託されたメッセージも代読。授業もなく毎日工場で働いた体験を語り、「戦争は破壊。平和は夢と希望です。努力をすれば目標はかなう」と呼び掛けた。

「命ある限り」

 この日は、被爆した当時3年生の稲生(旧姓中島)小菊さん(91)と一緒に登壇予定だった。しかし新型コロナ禍と「体力的な限界」で断念したため、林さんが一人で務めた。4歳だった被爆時の記憶はほとんどない。40年ほど前から「広島舟入・市女同窓会」の活動を支え、娘や姉妹を亡くした遺族や、友人、後輩を失った市女生の思いに間近で触れてきた。「慰霊祭で銘碑に刻まれた名前を手でなぞり、涙を流す参列者の姿を何度となく見てきた。命ある限り、私が伝えていく」

 林さんの思いを生徒たちも受け止める。「佐々木禎子さんの千羽鶴のことは習ってきたけれど、市女や学徒動員のことは知らなかった。戦争を深く学ぶことができた」と宮川朔太郎さん(15)。槇田彩織さん(16)も「私たちが市女の先輩たちの思いをつなぎたい」と力を込める。

 母校の重い歴史を学ぶ平和学習は、毎年地道に続けられてきた。ただ約20年前から、被爆体験を聞く授業は1年生だけ。柳智子校長(56)は「市女の歴史継承はわが校の責務。一方で、教師の世代交代が年々進んでいる。どうすべきか模索している」と語る。

色あせぬ使命

 同高図書室の「市女コーナー」に、社会問題研究部の生徒が1984年から15年間毎年発行した冊子「昭和20年8月6日 その時舟入(市女)は」が展示されている。生徒自らが聞き取り、手書きした36人分の証言を収録した。

 聞き手が高校生だからだろう。心を開き、語りかけるような言葉が紡がれている。冊子は全教室に配布され、平和学習で活用された。かつて顧問を務めた下田かおり教諭(54)は「生徒たちはとても意欲的で、使命感を持って取り組んでいた」と振り返る。だが、99年に16冊目を発行したのを最後に廃部となった。

 その巻末には、85年に部員が起草した「非核・平和宣言」が掲載されている。宣言の「行動提起」はこう記す。「少しでも多くの人に被爆体験・戦争体験を伺い、それを後の世代へと伝えていこう」「本校内に残る被爆関係の資料を探し出してまとめ、大切に保存していこう」。36年後も色あせていない。

 戦争と原爆の惨禍を記録する一次資料。「あの日」を経て生き抜いた人たちの証言。その肉声を聞き取り、記録する若い世代―。すべてがつながってこそ、戦争体験と教訓は受け継がれていく。(桑島美帆)

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 「ヒロシマの空白 被爆76年」の「市女 学徒動員の記録」編は終わります。

(2021年7月25日朝刊掲載)

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