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[ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す] 80人の死 無念さ切々と

長男「生涯重荷背負った」

原爆投下4ヵ月後 故島薫院長の弔辞現存

 「見渡す市街はたゞ(だ)土塊の廃虚に化せり。誰か涙無くしてこの惨禍を打ち眺め得るものぞ」―。爆心地の島病院(現島内科医院、広島市中区)が米軍による原爆投下から4カ月後に慰霊祭を開いた際、故・島薫院長が読み上げた「吊詞(ちょうし)」(弔辞)が残されている。医師や看護師たち約80人の犠牲に対する悲しみが切々とつづられている。(桑島美帆)

 島病院が1933年に開業した当時の設計図とともに、安芸区にある島家の蔵から今春見つかった資料の一つ。長さ約184センチ、幅約28・5センチの和紙に毛筆で書かれ、末尾に「昭和二十年十二月六日」とある。

 「當(とう)病医院は爆心地点に當(あた)りたるを以(もっ)て 原子爆弾炸裂(さくれつ)の瞬時 凡(すべ)ての生霊 天に帰したるものならん」。長男一秀さん(86)の妻直子さん(78)は「義父からの聞き書きで、誰かが筆を執ったのでしょう。気持ちがこもっています」。普段、人前では語らなかった薫さんの無念を思う。

 薫さんが「広島全滅」の一報を受けたのは、出張先の甲山町(現世羅町)だった。急いで広島市中心部を目指したが「嗚呼(ああ)全市火焔(かえん)に包まれ其(そ)の惨状言語に絶す」。袋町国民学校(現袋町小)で救護しながら、従業員や近くで小児科を営んでいた妹夫妻を捜し歩いた。「余は諸氏の生を信じ餘燼(よじん)の中に立ちて幾度か諸氏の名を呼べり 然るに答ふるもの一人として無し」と書き記し、患者たちの犠牲にも思いを寄せる。

 「父らしい文章。自分だけ生き残ったことを思い悩み、生涯その重荷を背負っていたように思います」と一秀さんは語る。自身は、広島高等師範学校付属国民学校(現広島大付属小)の5年生で10歳だった。西城町(現庄原市)へ学童疎開をしていた。幼い頃の記憶にある父は「いつも手術着で一生懸命働く姿」。戦後は広島外科会の仲間とともに「原爆被害者の後障害の治療を、求められれば無料で行う」と宣言し、国の被爆者援護に先駆けて救済に立ち上がっていた。

 一秀さんは父と同じ外科医の道を歩み、77年に薫さんが亡くなると爆心地の病院を継いだ。長年、院長室に修学旅行生を招き入れ、島病院の原爆被害や学童疎開の記憶を語った。しかし6年前に脊椎側彎症(せきついそくわんしょう)の手術を受けて以来、証言も診療も断念。医院を内科医の長男秀行さん(49)に任せ、リハビリを重ねている。

 弔辞の末尾に、悲嘆に暮れながらも前を向く薫さんの決意がにじむ。「この未曾有(みぞう)の國難(こくなん)に接し、我等(われら)國民は勇を奮いて再建日本への努力せざる不可ず」。慰霊祭は46年以降も8月6日に毎年続き、近年は島家で法要を執り行っている。あす、被爆76年の法要で、爆心直下の全ての犠牲者を静かに悼む。

(2021年8月5日朝刊掲載)

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