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空襲の記憶 光海軍工廠 歴史継承へ <中> 父母の思い

秘めた苦悩 冊子へ編集

B29恨んでも恨んでも

 母親の田中テルさん(3月、98歳で死去)から、光市の光海軍工廠(こうしょう)空襲の体験を聞くのは初めてだった。会社員の橋本紀夫さん(68)=山口市阿知須=は2020年夏、母親から海軍工廠で働いていた時の日記を受け取った。「ずっと聞いてほしかったんだと思う」。日記とともに、工廠の仲間と収まった写真が入ったアルバムも託された。

警報に募る不安

 空襲前の1945年7月24日の日記には、米軍爆撃機B29について「うらんでもうらみ足りない」とある。この年の5月以降、相次いで空襲を受けた下松市の惨状を目の当たりにし、光市上空にもB29がよく現れていた。そのたびに空襲警報が出され、不安を募らせていたこともつづっている。

 終戦後、山口市に帰郷してからも度々、工廠の生活を思い出し、日記に刻んでいる。9月1日には「何もせずぼんやりして居るとついいつか工廠の事を考へて居る。やっぱり、帰りたいと思った。工廠も帰って見れば、あんないい所はない。なつかしくてたまらぬ。あの友、この友、皆、何をしてるだろう」と。

 橋本さんは、日記を読み進めるうちに、母の戦争体験を追認しようと思うようになった。光市内である戦争関連の講演会に積極的に足を向けた。

 終戦前日の光海軍工廠の空襲は、太平洋の北マリアナ諸島(現在米自治領)にあるテニアン島から爆弾を積んで飛び立ったB29がもたらしたと知った。そこは、くしくも父親の秀夫さん(95年に74歳で死去)が日本海軍の爆撃機整備員として滞在した島でもあった。

 多くは語らない父だった。それでも橋本さんが小学生の頃、日本軍の基地があったテニアンやラバウル(現パプアニューギニア)など各地を転々とし、終戦間際に帰国したと教えてくれた。

 テニアン島は広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の出撃地でもある。第1次世界大戦の勝利で日本が占領し、米国との開戦に備え島北部に大規模な飛行場を設けた。海軍基地航空部隊の重要な基地だったが、44年8月に米軍に占領された。

両親生きた証し

 戦争に翻弄(ほんろう)された両親はテニアン島でつながっていた。そんな2人の記録を、橋本さんは冊子にまとめ、多くの人に知ってもらいたいと考えるようになった。仕事を終えて帰宅後、夜遅くまで母の日記をパソコンに打ち込み、写真を加えるなど編集作業を続けている。

 「母が何を思い、どう生き抜いたのか。その姿をたどれている気がする。2人に体験を直接聞くことはもうできないが、生きた証しをつづっていきたい」(山本真帆)

(2021年8月13日朝刊掲載)

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