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連載・特集

ヒロシマの記録―遺影は語る 材木町I

下町行き交う 笑顔があった


※2000年4月28日付特集などから。

■記者 西本 雅実、野島 正徳、藤村 潤平

 広島市中区の平和記念公園には、大小さまざまな60近い慰霊碑やモニュメントが随所にある。原爆慰霊碑の前に広がる芝生広場の東側にも高さ70センチほどの石碑がある。原爆で肉親を、住まいを焼かれ、公園建設で移転を余儀なくされた旧住民が1957年に建てた。「材木町跡」とだけ刻んだ。

 「むかしより材木を商ふものあまた居住す」。町名の由来が広島藩府の『知新集』にこう記される材木町は、16世紀末の築城期、本川と元安川に挟まれたデルタの中島地区に開けた。城下町時代から6カ寺が集まり、病気平癒や安産の祈願に効くとされた神々も祭られる。近代に入り北隣の「中島本町」が広島を代表する繁華街になると、小路が東西南北の四方に延びた町は、老若男女の人いきれに包まれた。原爆投下前の広島の文化・風俗を軽妙な筆致で書き留めた薄田太郎は、著書『続がんす横町』で「材木町界わいの小路にはそれぞれ昔ながらの風情があった」と、庶民の暮らしと歴史が息づいた町を点描している。

 今は高知県土佐清水市に住む大西(旧姓畦田)安子さん(68)は、原爆資料館の南側にあった誓願寺一帯が幼いころの遊び場だった。日暮れに山門が閉まるまで境内を駆け回り、紙芝居や猿回しに興じた。小路の屋台でお好み焼きやもち菓子を求めた。「被爆時の記憶になると鉛をのんだようになり、話せるようになったのは孫が生まれてからです」。材木町で、被爆当日の朝まで一緒にいた両親や妹たちは死んだ。

 町ごとどれだけの人が消し去られたのか。石碑の建立に尽力し、60年代後半に興った広島大原爆放射能医学研究所の爆心地復元調査にもひと役かった坂田寿章さん(89年死去)が残した資料が、手掛かりになった。341人を掘り起こしていた。

 遺族の代替わりなどで詳細がつかめなくなった半面、新たに消息が分かった人たちの協力により、原爆が投下された45年の末までに亡くなった388人と46年2人、47、48、51年各1人の計393人を確認し、223人の遺影の提供を得た。

 併せて、広島市が被爆五年後に市民から募集し、今も大半が未公開の「原爆体験記」から、材木町で妻を失った小川春蔵さんの手記を遺族の了解を得て紹介する。石碑だけが町跡を伝える一帯で起きたことを克明かつ悲痛なまでにとらえた記録である。

材木町Iの死没者名簿1

材木町Iの死没者名簿2

材木町Iの死没者名簿3

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