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連載・特集

[爆心地下に眠る街] 旧中島地区被爆遺構 消された暮らし 残っていた痕跡

 広島市中区の平和記念公園地下に眠る街、旧中島地区。原爆で壊滅した街の遺構を公園内で公開する市の計画作りが近く、動きだす。1945年8月6日に消し去られた暮らしの痕跡は3年前、原爆資料館本館下で見つかった。旧中島地区が描かれたアニメ映画「この世界の片隅に」も、遺構活用の議論を呼び起こした。公園に眠る街を、原爆の惨禍をどう伝えるか。本館下の被爆前後と、元住民たちの思いから考える。(水川恭輔、明知隼二)

動きだす 公開計画作り

 貿易商の地下倉庫、銭湯の浴室、猫の足跡が残る側溝…。7日、広島市文化財団が原爆資料館東館で開いた本館下の発掘調査の報告会。自宅兼店舗や寺院が立ち並んでいた旧材木町の一角の遺構がスクリーンに次々と映し出されると、参加者から驚きの声が漏れた。

 「原爆で記録の多くが失われ、詳しく分からなかった街並みや暮らしの一端の解明につながる」。田村規充・主任学芸員は発掘調査の意義をそう語る。被爆時の地層の本格的な調査は、今回が初めて。本館の免震工事の前に遺構の記録を残すため、市が財団に委託して2015年11月~17年3月に行った。

 元安川と本川に挟まれた旧中島地区はかつて広島有数の繁華街として知られ、約4400人が暮らしていたとされる。しかし被爆死亡率が100%に迫った爆心地の500メートル圏内に大半が入り、街は壊滅。その一帯で1950年から平和記念公園の整備が始まった。公園内の資料館は55年に完成した。

 被爆した街の遺構は、地下約70センチで確認された。公園整備の際、建物の残骸は壊されたが、土を盛ったため低い部分は残ったとみられる。がれきは周辺の穴に埋めたようで、被爆瓦や溶けたガラス瓶などの生活品が詰まった穴がいくつも見つかった。

 遺構は16年10月に1日だけ公開されたが、被爆者や資料館のガイドから常時公開を求める声が拡大。東館では、黒焦げのしゃもじが残る遺構部分が切り取られて展示されている。一方、市は同年12月、20年度までに園内の別の場所で遺構を展示整備する方針を示した。今月末、被爆者や専門家でつくる懇談会を始め、場所や保存処置の計画作りを進める。

 爆心地から2キロ圏の4万戸以上を全壊全焼させ、45年末までに推計約14万人の命を奪った広島原爆。本館下の調査エリアは15~20戸程度でしかない。その一角が、街の被爆を記憶するための新たな議論を喚起している。

貿易商の家に生まれた今中さん証言

「家族と書生たち12人で暮らしていた」

 地下室や中庭の池の跡が出土した旧材木町の家屋には、元広島市交通科学館長の今中圭介さん(82)=安佐南区=が9歳まで暮らしていた。被爆の前後を証言した。

 うちは広島市材木町96番地にあった貿易商。一時は家族8人と米国ハワイから広島に留学中の書生たち計12人ほどで暮らし、日中は従業員も5、6人いた。発掘された池には橋が架かっていた。僕が橋に立って歌うと、従業員ら大人が褒めてくれた。

 姉の博子は、近所で伸び伸びと遊びまくっとった。女学生の時、旧中島本町で映画を見るのに幼い僕を連れていってくれたが、子どもだけなので補導された。姉は「弟が見たいと言うから」とうまく言って許してもらうと、一銭洋食を食べさせてくれた。「家族に言うなよ」の口止めです。

 1945年の春、家族で八木村(現安佐南区)に疎開した。8月6日、17歳だった博子は、市中心部の銀行に勤めに出たきり帰らなかった。銀行や材木町の家の跡を捜し歩いた父圭三も斑点や下血の症状が出て、10月1日に亡くなった。放射線の影響に違いない。

 僕も親に連れられて疎開先から家の跡に行った。向かいの歯科医の竹内さん宅跡の焼けたトタンを何となくはぐると、座った状態の人間の骨があった。近くで人間より大きな骨も見た。近所の「菊の湯」の燃料を運ぶ馬だったのだろう。

 「家のどこかを開けといてやってくれ。博子が帰ってきた時、入れない」。脳梗塞で9年間介護した母セツノは、83歳で亡くなるまで僕や僕の3人の息子に言い続けた。原爆さえなければ、家族みんなで「96番地」に戻れたと思わずにいられない。

 助かって申し訳ない思いもある。疎開後、父が材木町の家の管理を知人に頼んだため、その奥さん(沖本シゲコさん)がそこで被爆し亡くなった。同じ材木町筋の精肉店で育ち、中島国民学校3年まで一緒だった長原君は疎開せず、犠牲になった。

 この前、平和記念公園で中学生が「ここは公園だから、原爆の時、それほど人が死ななくてよかった」と話していた。これはいかん、と思った。園内の他の場所も、掘り返せばいろんな街の跡が出てくるだろう。一部でも見えるようにして、一帯が確かに街だったんだという事実を、訪問者に伝えてほしい。

映画化でも広がる関心「この世界の片隅に」

 遺構への関心は、旧中島地区が描かれたアニメ映画「この世界の片隅に」(2016年)を通しても広がっている。国内の劇場観客動員数200万人を超えたヒット作。映画のシーンゆかりの地点を発掘し、「あの日」を伝える展示を提案する声もある。

 市民団体「広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会」が5月、市民約40人が参加したワークショップを基に市に出した「アイデア集」の中にも、その構想がある。映画に店の外観と家族が登場した、旧中島本町の「浜井理髪館」周辺の遺構展示だ。

 同店が生家で、原爆で両親と姉、兄を失った浜井徳三さん(84)=廿日市市=が被爆前の街の証言を続け、「掘れば店のタイルが出てくると思う。そうなればうれしい」と話しているのも理由。同会の多賀俊介世話人代表(68)=西区=は「遺構と、浜井さんたち元住民の証言が合わさる展示が効果的では」と話す。

 一方、原爆資料館東館と北側の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(中区)との中間エリアを推す声も。オバマ前米大統領の訪問などを追い風に昨年度は過去2番目に多い約168万人が訪れた原爆資料館への人の流れを、祈念館にも促す効果が期待されるからだ。

 このエリアはかつて旅館や商店が立ち並ぶ「天神町筋」が今の両館を結ぶように走っていた。旧天神町の元住民で同会の世話人の一人の森川高明さん(79)=西区=はこの通りの遺構公開を提案する。「核兵器廃絶へ、被害の非人道性を伝える新たな手段に」と訴える。

人の体温感じた 遺構見学の片渕監督

 映画「この世界の片隅に」のPRで2016年10月に広島市を訪れた際、本館下の発掘現場を見学した片渕須直監督=写真=が、中国新聞にコメントを寄せた。

 「この世界の片隅に」の完成直後に主演ののんさんと広島を訪れた際、資料館の発掘現場を2人で見学させてもらいました。

 映画では、中島本町の戦前の様子を再現することに努めていたのですが、一生懸命、資料を集めて思い描いていた町に、こんな形で対面できたことには大きな感慨を抱きました。

 お手洗いの履物だとか、畳とか、それに触れていた人の体温を生々しく感じさせる物を見て、戦争が、人々が日常生活を営む上に直接覆いかぶさってくる様子を自分たちの映画で描いたつもりだったのですが、まさにそのものを見せつけられた思いでした。

 これは今後も埋め戻さずに、たくさんの方々が見ることができる状態に置かれるべきではないかと思いました。こうしたものを見ることは、「戦争が損ねたものは何だったのか」を考えさせる貴重な体験になるだろうと思うからです。

(2018年7月23日朝刊掲載)

爆心地下に眠る街 <1> 本館下の米穀店

爆心地下に眠る街 <2> 元住民のつぶやき

爆心地下に眠る街 <3> 父の職場

爆心地下に眠る街 <4> 母の記憶

爆心地下に眠る街 <5> 次世代へ

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