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連載・特集

爆心地下に眠る街 <3> 父の職場

事実残す遺構 公開切望

 平和記念公園(広島市中区)内にある広島国際会議場北側の一角。「ああ、ここですか。今でも骨粉は残っているかもしれんなあ」。安福孝昭さん(80)=安佐北区=は感慨深げに足元を見つめた。その下には、森永食糧工業(現・森永製菓)広島支店の基礎の遺構がある。被爆死した父明人さん=当時(37)=が、あの日も勤めに出ていた。

市が埋め戻す

 遺構は2000年、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の建設用地にあった樹木の移植工事の際、見つかった。しかし、市は劣化防止や安全管理を理由に埋め戻した。支店があった旧元柳町の元住民が市に公開を要望したが、実現しなかった。周囲に遺構を紹介する説明板などはない。安福さんは中国新聞の求めで現地を訪れるまで、その詳細な位置を知らなかった。

 「優しい父でした。支店に連れて行ってもらったこともある」。一緒に訪れた姉小川和子さん(82)=南区=の言葉に、安福さんがうなずいた。

 1944年に疎開するまで、一家は現在の西区観音地区に暮らしていた。両親と子ども4人の6人暮らし。父は支店で庶務会計課長を務めていた。子どもたちを喜ばせるため、職場からキャラメルなどの菓子をよく持ち帰った。

 疎開先の小河内村(現安佐北区)には父を残し、母子5人で向かった。安福さんが覚えている父の最後の記憶は45年4月。父が疎開先に来てくれ、一家全員で花見をした。「おまえは自慢の息子よ」。小河内国民学校1年になった安福さんの成長を喜んだ。

 その4カ月後。壊滅した広島へ、母巴さんが父を捜しに向かった。支店跡に遺骨があった。生前持っていた金庫の鍵を目印に元同僚から「安福さんじゃ」と告げられたという。「疎開先に戻った母はショックで息絶え絶えでした」。小川さんは振り返る。

 戦後も小河内村にとどまって働きながら子ども4人を育てた母は体調を崩し、55年、42歳で死去。原爆投下直後には小河内国民学校に収容された被爆者の救護に当たっていた。

映画に昔の姿

 16年公開のアニメ映画「この世界の片隅に」に、被爆前の支店が登場する。モダンな外観に、孫と一緒に映画を見た安福さんは思わず声を上げた。支店で父が被爆死したこと、母や家族の悲しみを初めて孫に語った。「もし遺構が掘り起こされて公開されれば、若い世代の心にもっと響く」

 市は近く、平和記念公園の地下に眠る旧中島地区の遺構展示の計画作りを本格化させる。支店跡のあるエリアを含む公園内で展示の候補地を絞り込む。

 あの日、支店の職員計22人が犠牲になった。住人だけでなく、勤めに出た人も命を奪われ、残された家族は苦難を強いられた。その事実を伝える支店の遺構公開を、安福さんは強く望む。

(2018年7月26日朝刊掲載)

[爆心地下に眠る街] 旧中島地区被爆遺構 消された暮らし 残っていた痕跡

爆心地下に眠る街 <1> 本館下の米穀店

爆心地下に眠る街 <2> 元住民のつぶやき

爆心地下に眠る街 <4> 母の記憶

爆心地下に眠る街 <5> 次世代へ

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