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連載・特集

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <1> 新たな決意

廃絶へ 仕事はこれから

 カナダ・トロント市に住む被爆者のサーロー節子さん(86)は、原爆の非人道性を告発し、核兵器廃絶への揺るぎない信念を世界中で語り続けてきた。昨年7月、悲願だった核兵器禁止条約が実現し、12月には非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))」を代表してノーベル平和賞授賞式に登壇した。古里広島から遠く離れた地で歩んだ半生を聞く。

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 米国留学のため1954年に広島を離れて以来、結婚、子育て、ソーシャルワーカーの仕事、そして反核運動にまい進してきました。

 人生をいかに歩むべきか、高校生の頃から常に考えていました。根本にあるのは被爆体験です。親族8人が被爆死し、多くの同級生を失いました。なぜ自分は生きているのだろう。残された者の役割は何だろう。自分に、さらには学校の先生にも問いを繰り返す中で出会ったのがキリスト教であり、学校や教会活動の仲間や恩師です。両親は、私に自由な人生を歩ませてくれました。年齢を重ねるほど、みんなの顔を思い浮かべ、感謝の気持ちを強めています。

 人間って、一人で頑張ったつもりになりがちだけど、本当は周囲に支えられている。私の長年の反核運動も、亡き夫や仲間との共同作業にほかなりません。

  ≪ノーベル平和賞は、広島への思いを確かめる機会でもあった≫

 授賞式が開かれたノルウェー・オスロに、母校広島女学院大の学生さんが折り鶴を届けてくれました。寒空が広がる国会議事堂前に飾りました。多くの人の目に留まりましたよ。古里っていいなあ。後輩たちの計らいに胸が熱くなりました。ことし11月には母校から招かれて講演します。同窓生たちとの再会を心待ちにしています。

 昨年は素晴らしい一年でしたが、ノーベル平和賞は通過点。ゴールではありません。現実には核兵器廃絶にはまだ遠い。禁止条約を実のあるものにするのは、これからなんです。私にはまだ仕事がある。最後の日まで力の限り、核兵器の非人道性を訴え続けたいのです。(この連載はヒロシマ平和メディアセンター長・金崎由美が担当します)

(2018年8月3日朝刊掲載)

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <2> 移民

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <3> 幼少期

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <4> あの日

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <5> 地獄絵図

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <6> 喪失

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <7> 号泣

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <8> 高校

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <9> 16歳で洗礼

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <10> 女学院大時代

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <11> 奉仕活動

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <12> 留学と結婚

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <13> ソーシャルワーカー

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <14> 市教委勤務

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <15> 裁判支援

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <16> 軍縮・平和教育

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <17> ICAN

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <18> 反核の同志

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <19> 条約交渉会議

『生きて』 被爆者 サーロー節子さん(1932年~) <20> ノーベル平和賞

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