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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 直後のカルテ <2> 京大資料

服装の欄見て母しのぶ

家族に開示 記憶継ぐ

 「原子爆弾災害調査事項」と題された黄ばんだ紙に、被爆状況や健康状態の問いが50項目近く並ぶ。やけどや傷の程度・部位に加え、被爆時の服装や遮蔽(しゃへい)物の有無を詳しく聞いている。出血、発熱、脱毛など現在は放射線の急性症状として知られている症状の設問も細かい。

対象は延べ9000人

 京都大医学部の研究者たちが1945年9月に始めた被爆者の健康調査記録「京大資料」だ。調査は大野陸軍病院(現廿日市市)や牛田国民学校(現広島市東区の牛田小)を拠点に49年まで続けた。調査人数は延べ約9千人、紙資料は1万枚以上とみられている。

 広島大原爆放射線医科学研究所(原医研、南区)でその保管を担当する久保田明子助教(51)は、未知の被害実態に迫ろうとした研究者の苦闘とともに調査に答えた被爆者の存在を一枚一枚に感じ取る。「幼い子どもが自分の字で答えている調査票もあります。それぞれの被爆後の境遇を思うと、胸が詰まります」

 久保田さんは今春、京大資料を広く知ってもらおうと原医研設立60年の企画展で展示した。「体ガダルイ 八月六日ヨリ」「ガラス破片傷」…。個人情報保護のため名前は伏せた。

 京大資料に名前がある本人や遺族には、当時の記録を見たい人もいるのではないか―。記者はそう思い、さまざまな手記を基に調査に応じた可能性がある人を捜した。被爆後、牛田地区で療養した人に小原かねさん(79年に88歳で死去)がいた。岡山市北区に住む七女小野田久子さん(93)に聞くと「家族の資料があるのなら、ぜひ見たい」と望んだ。

 遺族である小野田さんの希望を文書にして久保田さんに相談すると、資料の有無を調べてくれた。小原さんの記録はあった。45年9月10日と、日付が未記入の翌46年の2回の調査票計6枚。記者が原本の写真を撮影し、小野田さんに見てもらった。

 「ああ、本当、お母さん」。小野田さんは調査票の「小原かね」の名前を見つめ、常に手帳にしのばせている母の遺影を取り出した。服装欄の「簡単服」の文字に「そうそう」と声を上げ、記憶をたぐった。

顔や腕にやけど

 自宅は爆心地から約1・5キロの上柳町(現中区上幟町)にあった。「朝、警戒警報が鳴り、真夏の暑い中でも母と長袖を着て備えたんです。でも解除されたので2人とも長袖を脱いで簡単な服装になったら、少ししてピカーっと」。小原さんは家のそばでまきを運んでいる時に熱線を浴び、顔や腕にひどいやけどを負った。

 外出中だった夫助市さん=当時(62)=は被爆死。小原さんは牛田の長女宅に逃れたが、薬がなく、家族が青柿をすりおろしてやけどに塗った。45年9月10日の調査票は「熱傷」を「程度第2度」「部位 顔、手」と記録。翌年はやけどが全治に2カ月かかり「皮膚瘢痕(はんこん)」が残ったと記されている。

 「腕が突っ張ったようになって、痛そうでした。でも、気丈夫な母は自分よりも私の心配をしてくれました」。小野田さんは身体にガラス片が突き刺さり、目のそばなどに大けがをした。結婚を機に岡山市に移った後も母は体調を気遣ってよく広島から様子を見に来たという。

 被爆直後の大規模調査の代表例の京大資料。調査を受けた本人や家族が見れば当時の状況を細かく振り返ることができ、研究者は家族たちから資料にない事実を知ることが可能だ。被爆から76年。まだできることはある。(水川恭輔)

(2021年7月31日朝刊掲載)

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