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ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 直後のカルテ <3> 公開対象外

閲覧 遺族すら許されず

苦しみ伝承へ活用を

 広島県立文書館(広島市中区)のホームページ。東広島市原爆被害者の会の高山等元会長(昨年89歳で死去)の寄贈資料266点の目録が公開されている。

 ただ、資料番号1~218の「被爆者カルテ」は、「公開対象外」と記されている。1945年8月6日~12月20日に西条町(現東広島市)の傷痍(しょうい)軍人広島療養所の医師が記録した被爆者218人のカルテの複製だ。

 高山さんは地元の被爆体験記集「被爆四十周年賀茂台地の声」(86年刊)の編さん時、同所の後身である国立療養所広島病院(現東広島医療センター)からカルテの複製を得た。カルテは外傷の位置や程度、食欲不振、髪の抜け始めといった症状、治療の内容などを詳細に記していた。

 体験記集には名前を伏せて1人分のカルテを掲載した。高山さんは「この記録を私たちは原爆により死線をさまよわれた人の平和への証(あかし)、教訓として学びたい」と記した。

原本は所在不明

 カルテの複製を寄贈したのは2002年。一方、東広島医療センターによると原本は所在不明という。カルテの複製は核兵器の非人道性の証拠として貴重さが増す。関係者の手記などから218人に含まれるとみられる1人の少年の死をたどるだけで、ありありと分かる。

 広島一中(現広島市中区の国泰寺高)1年だった吉冨健さん=当時(12)。父は療養所の薬局長で、そばの官舎に家族で住んでいた。勉強が得意だった。

 45年8月6日、吉冨さんがいた校舎は爆心地から約900メートルで倒壊した。吉冨さんは何とか脱出し、7日未明に帰宅した。「最初は元気で、庭のイモを世話したり、ニワトリにえさをやったりしていたそうです」。弟の泰さん(13年に77歳で死去)の妻睦子さん(77)=兵庫県明石市=は夫の生前にそう聞いた。

 しかし、すぐに元気がなくなり、被爆2週間後ごろから高熱が出て床に伏した。療養所の医師の手記によると、通常4千~8千個ある白血球は300個に激減。輸血などをしたが、8月27日に息を引き取った。

 睦子さんは夫の死後、遺族を代表して一中慰霊祭へ参列してきた。吉冨さんの未来を断った原爆放射線の影響を医師が細かく記録したカルテがあるのならば、「生かしてほしい」と話す。「普通の爆弾と違う恐ろしさを伝えてほしい」

 記者は文書館に睦子さんの思いを伝え、吉冨さんのカルテがあれば、閲覧させてほしいと希望した。しかし、記者はおろか睦子さんのような遺族が来館しても非公開とするという。

本人ならば検討

 同館によると、このカルテの個人情報は県の基準で、作成または取得の「110年を超える適切な年」まで利用を制限する資料に当たるとしている。対象例は「刑法等の犯罪歴、重篤な遺伝性の疾病」などに関わる資料。木下美樹生館長は「遺伝的な影響は未解明でも被爆2世への差別を考える必要がある」とする。

 記者は吉冨さんに子どもはいないと伝えたが、「全体を非公開としているため、一部だけを公開できない」。過去に研究目的で名前を伏せて「特別閲覧」を許可したことはあったが、それもやめた。ただ、本人ならば、同じ県基準に基づき公開を検討するとした。

 体験記集「賀茂台地の声」によると、カルテにある被爆者のうち46人は療養所に入院中に亡くなった。回復して退院できた被爆者も、長い年月がたち、今は何人が健在だろうか。本人以外に一切公開しないままでは、今後ますます資料が「死蔵」されかねない。

 傷痍軍人広島療養所のカルテのような医学資料は、熱線、爆風、放射線の苦しみを被爆者から直接聞くことが難しくなるこれからこそ重みを増す。家族間の記憶の継承や、名前を伏せてでも核兵器の非人道性を伝えることに生かせないのだろうか。(水川恭輔)

(2021年8月1日朝刊掲載)

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