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連載・特集

ヒロシマの空白 被爆76年 証しを残す 直後のカルテ <4> 75人分

被爆地から故郷佐賀に

奮闘の軌跡 守り抜く

 木箱のふたを開けると、「昭和二十年度 内科 原子爆弾ニ依ル書類」と大きく墨書された紙のつづりが現れた。佐賀県医療センター好生館(旧県立病院、佐賀市)が今も受け継ぐ、広島と長崎で被爆した75人のカルテだ。被爆後から半年にわたる診断や治療の軌跡が記録されている。

 229枚に上るカルテは2011年3月、内科の古いロッカーから見つかった。看護師長の交代に伴う整理作業の中で、後任者が偶然に発見したという。「初めて見た時は、よく残っていたものだと」。好生館の元脳神経外科部長で、カルテの分析にも関わった前山隆太郎さん(87)は当時の驚きをそう振り返る。

米軍の回収逃れ

 米軍は占領期、被爆者に関する膨大な数の医学資料を国に持ち帰った。好生館にも進駐軍が何度か来院したとの記録が残る。前山さんは「持って行かれないように隠した人がいたのかもしれない」と推測する。

 カルテの期間は終戦前日の1945年8月14日~46年1月5日。仕事や学徒動員などで長崎や広島にいて被爆した後、故郷に逃れて好生館を頼った75人の記録だ。それぞれの被爆状況や症状、血液検査の結果や処置の内容などが詳しく記載されている。広島での被爆はこのうち7人。カルテで死亡が確認できるのは57歳の女性1人だった。

 亡くなった女性は「爆弾落下ト共ニ家ノ下敷トナリ自ラ立チ上リ逃ゲタ」「8日、夕方帰佐シタ」。発熱や下痢を訴えて9月13日に受診し、入院した。ビタミン剤やブドウ糖、強心剤も処方されたが、次第に「両足浮腫」「全身浮腫」などと状態は悪化。10月2日に赤字で「死亡退院」と記されていた。

 「できることは全て試みた。そんな姿勢が読み取れる記録です」と前山さん。好生館は8月5日深夜からの佐賀空襲でも被害を免れており、医薬品は潤沢。親族からの輸血などの治療も探り、病理解剖もしていた。9月からは血液検査を希望する外来の患者が増えており、放射線による影響が徐々に知られ、市民に不安が広がる当時の情勢もうかがえた。

 カルテの解読に当たったのは、前山さんを含めた医師や研究者でつくる「佐賀医学史研究会」のメンバーたち。前山さんの自宅に集まっては、日本語とドイツ語が入り交じった記録の分析を進めた。作業は約3年にわたった。

分析のため整理

 そんな中、重要な役割を担ったのが好生館広報課の赤坂桜大(おうだい)さん(34)だった。学芸員資格を持ち、当時は隣接市の歴史資料館から好生館に転職したばかり。すぐに名乗りを上げ、プライベートの時間も充てて資料の整理に取り組んだ。

 カルテはほこりまみれ。順番もバラバラだった。一枚一枚名前を確認し、患者ごとに番号を割り当てて並び替える。保存や分析のために画像データ化もした。前山さんは「分析できたのは赤坂さんが整理してくれたから。彼の膨大なエネルギーの成果です」と評する。

 「命からがら佐賀に帰り着いたのに、原爆症で亡くなっていった。この歴史を伝えることが任務だという思いが湧いた」。赤坂さんは、カルテの整理に向き合った日々を振り返る。

 ただ、カルテを保管する病院の資料室に、博物館のような温湿度管理までは望めない。個人情報が詰まった資料だけに、どう活用するかも課題となる。

 カルテの分析を終えた後、15年に佐賀市内で報告会を開催。長崎大(長崎市)では、カルテの内容が見えない状態で展示したが、その後は外部での公開などはしていない。赤坂さんは「ただ資料が残っている、というだけで終わらせたくはないのですが」。歴史を刻む資料をいかに継承し、生かすのか。妙案はまだ見いだせていない。(明知隼二)

(2021年8月2日朝刊掲載)

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