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評伝 坪井直さん 非核を願い世界駆ける 未来へバトンつなぐ

 「ヒロシマの顔」として、国内外で核兵器廃絶を訴え続けた坪井直さんが亡くなった。20歳で被爆し、死の淵をさまよいながらも何とかつないだ命。心臓病にがん、体中に残るやけどの痕。傷つき、老いた体を押し、文字通り命がけで二度と被爆者を生まないために闘い続けた生涯だった。

 ことし正月、坪井さんから届いた年賀状に「本年限りであいさつを控える」とあった。その後、入院していると聞き、容体を心配していたところだった。

 2013年1月からの新聞連載「生きて」のため、1年近くにわたって広島県被団協の事務所や自宅で話を聞き、被爆証言の場に同行した。当時87歳。ユーモアを交えた語り口と、老いてもかくしゃくとした姿が今もまぶたに残る。あの甲高く大きな力強い声。一見元気そうな姿に「周囲から『化けもん』と呼ばれる」と冗談交じりに話したが、実際は被爆に起因するとみられる病に悩まされ続けた。

 76年前、原爆で大やけどを負った坪井さんは、似島(広島市南区)の臨時野戦病院に収容された。あふれかえる被爆者の中、捜しに来てくれた母の叫び声に、意識のないはずの坪井さんが、寝たまま手を挙げたという。故郷の音戸(呉市音戸町)に戻って母の介抱を受け、息を吹き返した。

 体が回復すると数学教員の道に進んだ。子どもたちからは親しみを込めて「ピカドン先生」と呼ばれ、教え子に被爆証言を熱心に聞かせた。貧血で入退院を繰り返し、3回休職しながらも中学校長まで務めた。

 平和教育には携わってきたが、それまで被爆者援護運動とは無縁だった。全国被爆教職員の会の会長だった故石田明さんに頼まれ、退職から7年後、広島県被団協の事務局次長に。その後、事務局長となり、被爆者の悲願だった被爆者援護法の成立を見届ける。やがて理事長に就任した。日本被団協の代表委員も務めた。力を入れたのは被爆体験の証言。世界を飛び回った。

 16年5月、原爆を落とした国の現職大統領として初めて広島を訪れたオバマ氏と対面した後、表舞台に立つ機会が減っていた坪井さん。17年の核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN(アイキャン))のノーベル平和賞受賞に際したインタビューでは、こう答えた。「うかれとっちゃあいけん」

 唯一の戦争被爆国でありながら米国の「核の傘」に防衛を頼る日本政府に苦言を呈し続け、被爆地広島がもっと声を上げるべきだと説いた。

 「不撓(ふとう)不屈。Never give up!(ネバーギブアップ)」。長期取材の最後、坪井さんから一枚の書を頂いた。証言活動などで決まって口にしていたモットーともいえる言葉だ。「核兵器が廃絶されるのをこの目で見たい。でも私が見られなくても、後世の人が必ず成し遂げてほしい」。そう語っていた坪井さん。その願いのバトンを、私たちは受け取った。(増田咲子)

(2021年10月28日朝刊掲載)

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