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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <1> 白井と山県 奇兵隊の軍監 対極の生き方

 近代の軍と政界で頂点に上り詰めた山県有朋にして頭が上がらない人物がいた。戊辰の北越戦で長州勢を率いて共に砲煙をくぐった後、一回り年下の山県に代わり奇兵隊最後の軍監となった白井小介である。

 銃暴発による右眼失明で「周南の独眼竜」と呼ばれ、維新後は山県が勧める仕官を拒んだ。今の山口県平生町田布路木に家塾を開き恬淡(てんたん)と生きた。時折、上京しては旧知の維新元勲宅を回り、酔った上での破天荒な振る舞いが伝説となる。

 白井の顕彰碑が家塾跡の近くにある。山県の碑文は異例なほどに率直だ。「みだりに人を批評しなかったが、酒が入ると面と向かって人の欠点を責め平生蓄えていたことを言いあげた」(漢文を意訳)とある。

 酒がらみの「被害」に遭って辟易(へきえき)した山県の顔が目に浮かぶ。「栄誉を喜ばず終身仕官しなかったのは、こせこせできないのが天性だったからだろう」とも。今なお地元で敬愛される白井の生き方は栄達を遂げた山県の対極にあった。

 武士に農町民も加わる奇兵隊は長州特有の軍隊である。藩を挙げて攘夷(じょうい)に走り下関で外国船を砲撃するが、米仏軍艦に報復された。ふがいなく敗走した正規兵の武士に代わり高杉晋作が文久3(1863)年に結成し、山県や白井も参加した。

 奇兵隊などの諸隊は銃戦に強く、幕長戦争で幕府軍を圧倒した。続く戊辰戦争を官軍の一翼で戦い、明治元(68)年11月から順次凱旋(がいせん)する。奇兵隊は620人中死者75人、傷者145人の犠牲を払った。

 翌明治2(69)年6月、山県は軍事研究のため欧州に旅立つ。戦傷兵の手当を改善してから洋行をと隊員が山県に訴えると、「軍監は俺だ」と白井がかばったという。

 その11月に諸隊は解かれ、限られた数の常備軍に再編された。農家の次、三男の隊員は帰る所がない。2千人近い脱退兵が集結し、明治3(70)年1月末に山口の藩知事居館を包囲した。藩は反乱を鎮圧し、死罪133人の厳罰を下す。庶民兵の血塗られた末路だった。

 平生でも奇兵隊員らの暴動が起きた。白井は鎮圧に回り、この痛恨事の後で隠とん生活に入る。山県は欧州にいた。(山城滋特別編集委員)

 白井小介 1826~1902年。萩に生まれ阿月(柳井市)浦氏家臣に。周防に第二奇兵隊を創設▽山県有朋 1838~1922年。萩の下級武士出身。近代軍制を創設し陸軍卿(きょう)、首相、元帥陸軍大将。

(2022年2月15日朝刊掲載)

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