『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別
21年1月20日
5歳で山下家の養子に
≪1930年、広島県玖波町(現大竹市)で生まれた≫
私は山下家の養子なのです。生家は玖波町の倉田家。農家をしていた父健一、母スガの5人きょうだいの末っ子として生まれた。姉と兄が2人ずついて、私は名前の通り三男。しかし、母は私が2歳、父は4歳の時に病死しました。
15歳以上年が離れた姉2人は、父が亡くなる前後に結婚。両親を失い、7歳上の兄はブラジルへ渡り、3歳上の兄は叔母方に身を寄せた。私は5歳の時、子どものいなかった山下家の養子になり、きょうだいは離れて暮らすようになりました。
≪宮内村(現廿日市市)で養父寿郎、養母タミノに育てられた≫
生家での記憶はほとんどなく、成人して両親の写真を見た時も面影がまったく浮かびませんでした。子ども時代で思い出せるのは養子になってからです。
おやじは農業をしていた。酒を飲まず、遊びもせず、仕事一筋の人。一人息子の私に「勉強せい」とよく言っていた。おふくろは、さらに厳しかった。子どもの頃の通知簿を見せてもらったが「甲乙丙」の「甲」ばかり。私が宮内尋常高等小学校(現宮内小)に入ると、裁縫をしているおふくろのそばで勉強をさせられた。手を抜いていると、長差しでパチッとたたかれたものです。
そのおかげか成績はまずまず良かった。しかし、体育や音楽、工作などは不器用でだめ。操行(行儀)も良くなかった。良くも悪くも積極的な性格で、わんぱく。いたずらをしてはおふくろが近所へ謝りに回り、よく怒られた。
小学3、4年生のころ、近所の子どもに「もらい子」と言われ、養子と気付くようになった。おふくろは私に「母の乳が出ないので預かっている」と話していた。幼い頃は両親との死別を知らせまいと気遣ってくれたのでしょう。両親については、中学生になって生家の親戚から聞いて知りました。
家では、きょうだいがいなくて寂しかった。だから友達と外でよく遊んだ。大きくなっても先輩や仲間、後輩とのつながりを求め、大切にしてきた。それは、人恋しかった子どもの頃の経験からだと思います。
(2021年1月20日朝刊掲載)
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