『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上
21年2月3日
「行政はサービス産業」
廿日市市長に1991年に就任し、市職員にまず話したのは「市民はお客さまであり、行政は最大のサービス産業である」でした。地方自治は住民のためにあるというのは、宮内村議の頃から培ってきた考え。住民に寄り添った姿勢で仕事に臨むよう、意識改革を求めました。 ≪2001年、循環バスの運行を始める≫
市内で開いた市政報告会で高齢の女性から「せっかく立派なスポーツセンターができても、車を運転できないので行けない」と聞いたのがきっかけでした。市役所新庁舎や文化ホールなどの都市基盤整備が進む一方で、市内の公共交通機関は広島市内への輸送が中心。市内の各施設を結ぶ交通網が課題だった。 庁内で循環バスの議論を始めたところ、ほとんどの職員は「採算が厳しいのでは」と慎重だった。市長選で公約に掲げ、試験運行をして利用状況や市民の意向を探った。既存のバス路線と競合しないように注意を払い、市役所発着の2ルートで運行を始めた。運営は今も厳しいと思うが、交通弱者対策には欠かせないと思います。 ≪02年、子ども医療費を無料にする対象年齢を3歳までから小学校就学前までに引き上げる。広島県内の13市では初めての試みだった≫
日本の将来を考えたとき、少子化問題が一番の課題だと考えていました。国も有効な手だてが打てず、国がやらねば地方がやるという気概で子育て支援に取り組んだ。子ども医療費無料の対象拡大はその一つ。市内のニュータウンには子育て世代が多いですから。市の負担は増えるが、県の制度に上乗せして踏み切りました。 ≪日本赤十字広島看護大を市内に誘致した≫
若者が集まる四年制大学を誘致するのが夢でした。町を活気づけ、イメージアップにつながる。日赤が中四国の拠点校として県内に看護大を設置する話を聞き、手を挙げた。広島市、大竹市と競い、地価や研修先の広島赤十字・原爆病院(広島市中区)に近いことから選ばれ、00年に開学した。卒業生が市内の病院で看護師として働くようになり、市の医療にも貢献してもらっています。 (2021年2月3日朝刊掲載)
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ