×

連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

開市式に感慨ひとしお

  ≪政令指定都市を目指す広島市が1970年、広島県廿日市町に合併を申し入れた≫

 社会党の広島市議からも町議の私に「体育館の一つでも造るから」と合併の呼び掛けがありました。町内では、広島市により近い東隣の五日市町(現佐伯区)の動向を見ていて議論が進んでいなかった。町議会で合併問題を検討する広域行政調査特別委員会が設置され、私が委員長に就いた77年から本格的に検討した。

 議会の一部や広島市から移り住んだ住民の中には、合併に賛成の意見もあった。だが、オイルショックで景気減速の時代でもあり、大都市に加わるよりも小規模都市できめ細かな施策を進め、住民の福祉向上を目指すべきだという意見が議会で大勢となった。周辺の大野町や宮島町などと合併する可能性も非公式に探ったが、宮島競艇の財源があり、その機運はまだありませんでした。

 ≪町議会は79年、広島市と合併せず、単独市制を目指す調査報告をまとめる≫

 半明英夫町長も賛意を示し、単独市制への流れとなりました。市になる要件の人口5万人を85年の国勢調査で突破。住民アンケートで6割以上の賛成を得て、市制移行の議案が全員一致で可決しました。

 ≪この頃、自身も政治家として転機を迎える≫

 84年に社会党を離党しました。二十数年議員をしてきて、地方自治では政策に政党間の差をあまり感じなくなった。私は労働組合の出身ではなく、地元の支持者から再び町長選に挑戦してほしいと要請されていたこともあり、より自由な立場で活動したいと考えるようにもなった。党と労組の関係者に気持ちを話し、理解してもらいました。離党後も社会党との関係は大切に続けました。

 85年の町議選には無所属で立候補し、改選後、議長に初めて就任しました。それまで副議長を計10年間務めていた。当時の議長が16年間続けていたので、人心を一新しようと大多数の議員が推してくれました。

 ≪88年4月1日、県内13番目の市として廿日市市が発足する≫

 市議会議長として開市式を迎えました。人口が増え成長する町の節目に立ち会い感慨もひとしおでした。

(2021年1月30日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

年別アーカイブ