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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

新庁舎建設にまず着手

  ≪1991年9月、廿日市市の半明英夫市長(当時63歳)が急死する≫

 宮内村の村議になってから数えて10期目、市議会議長の時です。市議会定例会の開会期間中に半明市長が体調を崩され、突然のことに驚きました。

 ≪市長選が実施されることになり、立候補の要請が相次ぐ≫

 地元選出の広島県議や市議の仲間、地元企業の経営者たちから声を掛けられました。「議員生活の集大成として市民に恩返しをせよ」「あなたがやらないといけないだろう」と。17年前に廿日市町長選で落選して以来、支持者からも再び首長を目指してほしいと要請されていました。多くの方の支援をいただきながら33年間、地方自治に携わってきた自負もあり、腹をくくりました。

 ≪2代目市長に初当選する≫

 かつて所属した社会党だけでなく、自民党、民社党の政党や連合広島などの幅広い団体から推薦をいただきました。都市基盤整備などを訴えた選挙戦は、出陣式をして8時間後に終わった。他にも立候補の動きがあったものの、私以外に届け出がなかった。多くの力が一気に結集し、それに載せていただいた選挙でした。

 ≪11月に初登庁する≫

 まず着手したのは新庁舎の建設です。庁舎は手狭になっていたが移転先の用地買収が難航し、前に進んでいなかった。また、広島市のベッドタウンとして人口が増えた市内には文化ホールや市立図書館などの施設がなく、市民から強い要望が出ていました。これらを1カ所にまとめて整備し、町の中心をつくろうと考えた。

 移転先の候補地を一から探し直して新たに選んだのが、1・8ヘクタールのまとまった土地がある民間の自動車学校。私が自ら交渉に当たり、用地売買契約を1年後に結んだ。97年に新庁舎と文化ホール、図書館、美術ギャラリーを現在地に完成させることができた。

 完成後も市役所の近くに税務署などの国の出先機関や郵便局の移設を誘致し、公園を整備した。私が市長を退いた後には大型商業施設も進出して、一帯が町の核になったのは狙い通りで何よりです。

(2021年2月2日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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