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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

自転車で村内駆け回る

 21歳の時、宮内村(現廿日市市)の村長選で、家が近所だった広藤鼎村長(1990年に死去)の参謀を務めました。激戦が予想されたので引き受け手がいなかったようです。私は青年団や町内会でリーダー役を務め、地域の人をよく知っていた上、引き受けたことは責任を持ってとことんやる性格。そんな私に声を掛けた広藤村長は再選。これが選挙に出るきっかけになりました。

  ≪4年後の55年、宮内村議選に25歳で立候補する≫

 村長選と村議選は同じ日程であり、広藤村長から今度は「議員にならないか」と勧められました。政治に関心はあったが、当時の村議は一番若くて40代で、私は被選挙権を得たばかり。青年団の友人たちに相談すると、皆が「やれ、やれ」と賛同してくれた。地元の町内会も支援してくれることになり、立候補を決意した。

 議員定数は12で、23人が立候補。自転車で村内を駆け回った。当時は政見の演説会があり、食料増産を訴え「若者の意見を地方自治に反映させる」と呼び掛けた。結果は4位で初当選。仲間と万歳をして喜び合った。この時は、後に50年近く地方自治に取り組むとは思いもしませんでしたが。

 ≪農業をしながら議員活動を始めた≫

 村役場に議場はなく、会議室に机と椅子を並べて会議を開いていた。農業をしている議員が多く、農繁期には夜に全員協議会を開くこともしばしば。人手が足りなかったのか、公共工事の現場監督を議員がすることもあった。今では考えられないが、そういう時代でした。

 ≪行政事務の効率化を目的とする「昭和の大合併」で廿日市町と平良、原、宮内、地御前の4村が56年に合併し、新廿日市町が発足する≫

 国、広島県の強い指導で合併協議が急速に進み、当選直後の最大の懸案だった。宮内村では大きな異論はなく、合併が決まった。ただ、合併直後の町長選は、元平良村長が元廿日市町長を破る激しい選挙になった。合併後の半年間在任した旧5町村の議員60人は地元への予算確保に躍起。住民もしばらくはどこかお互いになじめず、一つの町になるのは難しいものだと感じました。

(2021年1月27日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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