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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

社会問題 みんなと議論

  ≪旧制山陽中(現山陽高)を卒業した1947年、広島県に就職する≫

 大学への進学も考えましたが、おふくろが胆石を患い、体が弱かったのです。看病が必要な時があり、卒業後は就職することにした。おやじが「社会勉強になる」と県庁を勧めてくれ、17歳で働き始めた。

 配属されたのは、廿日市町(現廿日市市)にあった佐伯地方事務所。佐伯郡内を所管する事務所の総務課で、会計を担当した。事務所長が郡内の町村を訪ねる時はかばん持ち。郡内は30以上の町村があり、各地へ同行した。初任給は560円だったか、とても低かった。月給袋ごと家に渡して小遣いをもらっていたが、すぐになくなった。

 ≪2年後に県を退職する≫

 おふくろの体調がさらに悪くなり、ずっと寝込むようになりました。敗戦後の食糧難の時代であり、おやじは農業に忙しい。看病できるのは一人息子の私しかいなかった。幼い頃に両親と死別し、孤児同然だった私を、おふくろは愛情を込めて育ててくれました。人生を変える大きな選択だったが、仕事を辞める決断をした。

 退職後は農業を手伝いながら、おふくろを看病し、買い物や炊事、洗濯をした。しつけに厳しかったおふくろは、家事も中学時代から教えてくれていました。

 ≪働きながら青年団活動にも没頭した≫

 若者たちが集う青年団が各地で活発でした。地元の宮内村(現廿日市市)では、盆踊りや体育大会などの行事、演劇や映画上映などの催しを開いていた。仕事を終えて夜に集まり、仲間と練習や準備をした。23歳の頃からは団長を務めた。米国の農業青年の活動を取り入れた青年団や農協の青年団にも入っていた。

 青年団に集まれば、みんなが政治や社会問題について議論し、私も関心を持つようになった。当時は青年の弁論大会が盛んに開かれ、会場は熱気にあふれた。私もよく参加し、戦時中の学徒動員や被爆した体験から平和問題をテーマに演説することが多かった。朝鮮戦争(50~53年)を機に日本で再軍備が進んだことに「平和憲法を守り抜け」と訴えたことが印象に残っています。

(2021年1月26日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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