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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

反核や平和政策に共鳴

  ≪1957年、合併後初の広島県廿日市町議選で当選。平和運動に取り組み、社会党(現社民党)に入る≫

 地元の宮内地区に社会党県議の村井一夫さん(88年に死去)がいました。私は町議になった頃から村井さんを支援し、平和運動にも関わるようになった。戦争反対や核兵器廃絶を訴えながら広島へ向かう平和行進に参加し、労働組合の集まりや学校などで被爆体験を証言するようになった。

 社会党の反核、平和の政策に共鳴して60年ごろ入党し、党佐伯総支部の書記長になった。4期目の町議選(65年)からは党公認で立候補。保守の強い地域だが社会党は一定の勢いがあり、町議会20議席のうち多い時で4議席を得た。

 党内で影響を受けたのは衆院議員の大原亨さん(90年に死去)です。中選挙区時代の広島1区選出で、私は秘書を2年間務めたこともあった。年金・福祉や被爆者対策に力を入れ、よく勉強する方でした。座右の銘は「志あるところ、必ず道あり」。私もそれに倣いました。横浜市など革新自治体が取り組む政策で参考になるのを見つけると、資料を取り寄せて研究した。

 ≪廿日市町が海面を埋め立てた造成地を巡り、70年に町政が大混乱する≫

 後に遊園地の「広島ナタリー」ができる埋め立て地が問題の舞台だった。民間事業者が遊園地の建設予定地を宅地として転売し、町がそれに関与していた疑いが浮上。町長のリコール(解職請求)運動に発展し、町長は辞職して選挙で信を問う事態になった。

 革新系の反町長派は、私を町長選に立てることを決めた。一方で保守系の反町長派も候補を擁立し、さらに社会党町議の中で保守系を推す人が出て、党内で支持が割れてしまった。これには頭を抱えた。悩み抜いた末、支持が分裂した選挙になるのを避けるため、私は選挙告示日の直前になって立候補の辞退を決断した。そして選挙は、保守系の反町長派の新人が当選しました。

 ただ、私の立候補に期待し、支援態勢を組んでくれた支持者たちを裏切ってしまったのも事実でした。社会党や労働組合は、4年後の町長選に私を出すことを決めました。

(2021年1月28日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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