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連載・特集

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選

支援のありがたみ痛感

  ≪1974年、広島県廿日市町(現廿日市市)の町長選に立候補する≫

 4年前の町長選で立候補を急きょ辞退し、次の選挙では革新町政を目指して立つと決めていました。25歳から6期19年続けてきた議員をいったん辞職して挑んだ。町長選は保守系と革新系が2人ずつの4人が立候補し、相当に厳しい選挙になると覚悟した。

 選挙の1カ月前に開いた演説会では、社会党書記長を務めた岡山選出の衆院議員江田三郎さん(77年に死去)が駆け付けてくれました。江田五月・元参院議長の父です。600人で埋まった会場は「両三郎、大いに語る」と沸き、それなりの手応えを感じて選挙戦に臨んだ。

 立候補者が多く、投票率76%と有権者の関心が高い選挙となった。私は無所属で立候補し、住民の福祉向上などを訴えた。結果は6300票と予想を大きく上回る得票だったが、保守系新人で町議同期当選の半明英夫氏(91年に死去)に800票余りの差で敗れた。それでも全力で応援してくれた支持者が「惜敗」とねぎらってくれ、次への気力が湧きました。その後も含め選挙で14回当選したが、唯一敗れた町長選は、支持者のありがたみをより深く感じる貴重な経験となりました。



 ≪再起を期した≫

 町長選で多くの支援をいただき、政治家として生きていこうと決意した。町長になるのを目指したからには、もう一度議会に戻り、町政に努力しようと考えた。

 ただ、生活の問題もありました。2男1女の子ども3人を町議の報酬では養えず、33歳の時から近所のたんす製造会社に勤め、西日本で営業しながら議員活動をしていた。町長選に出るため退職し、妻も私の立候補を不安がっていた。落選後は友人に声を掛けられ、生協理事をしばらく務めました。

 ≪77年、町議に3年ぶりに復帰する≫

 町長選での敗北に同情をいただいたのか、トップ当選でした。町議7期目は知人たちからの要請がいくつも重なり、社会党の大原亨衆院議員の秘書や地元農協の理事に就いたほか、道路管理会社の設立にも関わった。議員活動以外にも多忙を極めるようになりました。

(2021年1月29日朝刊掲載)

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併

『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ

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