『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <15> つなぐ
21年2月10日
被爆者の思い 世界中へ
≪2007年、4期務めた廿日市市長を退任する≫
77歳でまだ元気でしたが、まちづくりは平成の大合併を終えて一区切りし、多選の弊害を考えました。自分に厳しくしてきたつもりだが、長く続けるほど住民との緊張感がなくなるのではないかと思った。それと広島県市長会の会長や全国市長会の副会長として国に地方分権、税源移譲などを求めてきた中で、新しい時代を迎える地方自治体は、新しい力で進めるべきではないかと。後進に道を譲る決断をした。
最後に退庁した日は感無量だった。決断を求められる毎日だったが、住民や職員に支えてもらい、やり遂げることができた。議員時代に人口1万8千人だった廿日市町が50年余りで11万都市に成長し、感謝の思いで胸いっぱいでした。
≪08年から広島県社会福祉協議会の会長を7年間務める≫
前会長で知事を務めた竹下虎之助さん(08年に死去)から頼まれ引き受けました。竹下さんには町議時代からお世話になり、懇意にしてもらっていました。在任中は大きな災害が続いた。東日本大震災(11年)で被災地に職員やボランティアを派遣し、広島土砂災害(14年)ではボランティアセンターの運営を支援。スコップなどの道具を備蓄するなど備えました。
≪市長を退任後も被爆証言を続けた≫
あの惨禍を伝えるのは、原爆で生き残った者の使命です。悲劇を繰り返してはいけないと話し、どの会場でも真剣に聞いてくれました。ただ、私も1月1日で91歳になった。大病を患うことはなかったが5年前から何度か手術を受け、自宅で過ごすことが多くなった。
核兵器禁止条約が1月22日に発効した。米国の核の傘に依存する日本は批准せず、残念でならない。戦後生まれの政治家ばかりになり、戦争の悲惨さの実感がないのだろうか。だが、条約発効は世界で核兵器廃絶の世論が高まっている証拠。私たちの思いを世界中で受け止めてほしいです。=おわり(この連載は編集委員・岩崎秀史が担当しました)
(2021年2月10日朝刊掲載)
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <1> 地方自治一筋
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <2> 両親との死別
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <3> 学徒動員
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <4> 8・6
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <5> 青年時代
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <6> 初当選
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <7> 社会党
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <8> 落選
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <9> 単独市制
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <10> 市長就任
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <11> 福祉向上
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <12> 核廃絶運動
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <13> 基地問題
『生きて』 元廿日市市長 山下三郎さん(1930年~) <14> 平成の大合併