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連載・特集

[中国新聞Under35] 坪井さんの足取り 被爆学ぶ一歩 東京の大学生 広島でたどる

 昨年10月に96歳で亡くなった前広島県被団協理事長、坪井直さんの被爆当時の足取りをたどりたい。そう考えた東京の20代2人が11月、広島を訪れました。2人は何を感じたのでしょう。記者も一緒に歩き、話を聞きました。(湯浅梨奈)

高橋さん「知らないことたくさん。聞いておけば」

「あの日に見ていた光景が浮かぶよう」徳田さん

坪井さんとの出会い

 広島にやってきたのは、核兵器廃絶を目指す若者グループ「KNOW NUKES TOKYO(ノーニュークストーキョー、KNT)」共同代表の慶応大3年高橋悠太さん(21)と、メンバーの上智大2年徳田悠希さん(20)です。

 福山市出身の高橋さんが坪井さんと出会ったのは、盈進中3年の時。ヒューマンライツ部で被爆証言を聞き取りました。その後、証言集を編集。手渡した時に坪井さんから「頼んだよ」と言われたのが忘れられないそうです。「核なき世界のために行動してね、という思いが込められている気がして背筋が伸びました」

被爆した広島市役所近くで

 あの日、広島工業専門学校(現広島大工学部)の3年生で20歳だった坪井さんが、何を思ったのか。高橋さんは徳田さんと、爆心地から約1・2キロの広島市役所(中区)近くに向かいました。坪井さんが被爆した場所です。高橋さんたちがまとめた証言集には次のように書かれています。

 ≪自分の体を見たら、ズボンは膝から下が焼けてぼろぼろじゃ。その先は、やけどで皮膚が黒々となっていて、血がパーッて出よる。「しまった」と、思ってね。腰からどす黒い血が、とにかく水のように流れていた。≫

 2人は、当時の坪井さんとほぼ同じ年齢。もし、自分が同じ立場だったら―。想像しながら、市役所近くの路上で立ち止まりました。「坪井さんは左から爆風を受けたと言っていたから、こっち向きに立っていたのかな」と高橋さん。再現を試みますが、詳細が分かりません。高橋さんは「知っていたつもりでも知らないことがたくさん。もっと聞いておけばよかった」と悔やみました。

死を覚悟した御幸橋

 続いて、近くの御幸橋に向かいました。橋の手前から、2人は急にゆっくりと歩き始めました。坪井さんは、治療所があるという橋までの200メートルを、1時間以上かけてはうように歩いたと聞いていたからです。

 建物のがれきと、炎と、たくさんの死体に囲まれ、飛び出た腸を押さえるようにして逃げる人もいたそうです。坪井さんは橋のたもとにたどり着きますが、治療所はありません。

 ≪治療も何もないから、そこでは「本当に死ぬるな」と思ったんですよ。自分は半ズボンだけ。いつもポケットに入れていた在学証明書も焼けて、私を示すものは何もない。地面に座りこんで「坪井はここに死す」と書いた。≫

 御幸橋西詰めに立った高橋さんは「この橋のたもとに来たかった」と話しました。その場にしゃがんで、当時の坪井さんをまねるように「坪井はここに死す」と地面で手を動かします。「死を覚悟するって、なかなかない。この世のものとは思えない傷や苦しみ、自分も死ぬかもという無念さ…。坪井さんの原点に近づき苦しい気持ちになりましたが、やっと供養できた気がします」と話しました。

 徳田さんは、坪井さんと会ったことがありません。でも、歩いた後に「坪井さんとの距離が近くなる時間でした」と話しました。「坪井さんがあの日見ていた光景が浮かぶようでした。これから被爆者の方々と会う機会が減る中で、足取りをたどることは、被爆というものに近づく方法の一つじゃないでしょうか」

    ◇

 高橋さんと徳田さんが歩いた日の詳細や、2人が平和をつくる活動に取り組む理由を語った記事は、投稿サイトnote「中国新聞U35」で。

 このウェブサイトでも読むことができます。

(2022年1月31日朝刊掲載)

【前編】歩いて感じたあの日
【後編】「意識高い系」と言われても

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